壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

黙祷とコーヒー

二日酔いの体に熱いコーヒーが沁みる。

 
いつもより甘いコーヒー。
 
寒い朝に体が暖まる。
 
5時40分。
 
神戸に僕はいた。
 
被災していない僕はなんとなく場違いな気がしていた。
 
だから、ひたすら手の中のコーヒーをすすっていた。
 
いや、コーヒーをすするしか仕様がなかったと言ったほうが正しい気がする。
 
 
 
 
名前は知っている。
 
死傷者の数も知っている。
 
でも、それしか知らない。
 
地震が起きた瞬間、誰が何をしていたのか僕は想像するしかない。
 
その日の朝、どれだけ寒かったのか、僕は想像するしかない。
 
 
 
5時46分。
 
黙祷。
 
動いていた時が止まる。
 
というより、時を止めているのかもしれない。
 
何もしなければ、時は勝手に動き出す。
 
ただ、被災した瞬間に止まってしまった人もいる。
 
黙祷している間だけは19年前と同じ時間が流れる。
 
この止められた時間を共有することなら、僕にでもできるのかもしれない。
 
そうやって、やっと僕も少しだけ、神戸に近づけたのかもしれない。
 
 
 
 
目を開ける。
 
また時間が動き出す。
 
手の中のコーヒーはすでに冷たくなっていて、そのことがなんだかやけにリアルだった。
 
 
 

海外に行きたかったけど、行けなかった僕が考えたこと

巷では就活が始まったらしい。

 

ぼくも一年前はリクルートスーツを身にまとい、よく知りもしない企業の説明会を聞いてはふむふむうなずいてみたりして、

 

エントリーシートとやらもたくさん書き、でも、ほんとにこんなんで何が分かるっていうんだとか考えてた。

 

なんとなく「アンチ就活」みたいなスタンスでやってきてたけど、一応、第一志望の企業は見つかったし、そこに落ちたときはかなりショックだった。

 

 

 

 

就活が始まる前、3回生の10月ごろ、僕は海外に行こうと考えてた。

 

旅行じゃない、留学でもない。

 

青年海外協力隊だ。

 

神戸まで行って説明会を受けて、アドバイザーのおっちゃんに相談した。

 

そしたら、「君は阪大なんだから、青年海外協力隊に行くより、JICAに就職した方がいい」と言われた。

 

「貴重な三年間を青年海外協力隊に費やしても、そのことをきちんと評価してくれるところはほとんどない」とも。

 

その瞬間、僕は後悔した。

 

もっと早く海外への道を考えていれば、2回生のときに留学しておけば就活とも被らないしベストだったのかとやっと気づいた。

 

本気で考えるのが遅すぎた。3回になってからじゃ厳しかった。

 

 

 

今、海外に行こうか迷ってる人が何人かはいると思う。

 

僕の周りは結構真面目な人が多い。

 

早くしないと手遅れになることに気づいている人も多いと思う。

 

でも、ぼくは、あえて海外に行くことをお勧めしない。

 

いや、正確に言うと、日本にいても大丈夫だということを伝えたい。

 

だから、久しぶりにブログを書いた。

 

 

 

僕は当時、海外に行かないとダメな気がしていた。周囲の「できる」奴らに置いていかれるような気がしていた。

 

海外に行かないと自分が磨かれないような気がしていた。

 

就活の役に立つような気がしていた。

 

たしかに、海外に行くことはいい武者修行になると思う。

 

英語ペラペラはかっこいいし、海外で試行錯誤しながら過ごす期間は大きな財産になるだろう。

 

それはきっと間違いない。

 

でも、じゃあ、「海外に行かなかった一年間」は成長していなかったのかと言われればそんなことはないと思う。

 

ぼくは、むしろ、日本にいたからこそできたことがたくさんあるように思う。

 

障害者支援のボランティアを濃く続けることができたし、その経験は今執筆中の卒論にしっかり反映されている。

 

日本にいたから出会えた人々の導きによってぼくは来年以降の進路を決定した。

 

海外になんか行かなくてもちゃんとなんとかなる。

 

ちゃんと将来の種は埋まっている。

 

それを見過ごしたり、見過ごしたふりをしていたらもったいないと思う。

 

海外に行っちゃったほうがもったいないということだってあるはずだ。

 

 

 

 

それでもやっぱり僕は海外に行ってみたいと思う。

 

海外に行かないとわからないこともいっぱいあると思う。

 

だけど、海外に行くのは今すぐじゃなくてもいいし、とりあえず、いまは、目の前のことにしっかりと目を向けていたい。

 

いまいる場所を大事にしたい。

 

武者修行できるのは何も、遠いところだけではない。

 

遠くにある場所だけがユートピアじゃない。

 

だから、ぼくは置かれたところで咲けばいいと思う。

 

今いる場所を正解に変えていけばいいと思う。

 

海外に行かないという選択肢だってちゃんとある。

 

周りの大人たちだって、一度も海外になんか行かずにかっこいい人たくさんいる。

 

海外に行けなかったことは悔しいけど、たしかに悔しかったけど、負けじゃない。

 

だから、僕は、とりあえず、もうちょっと「ここ」で頑張ってみようと思えている。

四つ折りの千円札

昨日今日と、サークルの関係で地域のお祭りに出店していた。

 

基本的に小学生を対象としたくじ引きのようなゲームで出店したので、当然主な客層は小学生だった。

 

ひと段落つき、お金の計算をしていると、あることに気が付いた。

 

四つに折ったときにできる線のついた千円札が多いということだ。

 

千円札を四つに折る。つまり、お年玉としての役割を背負った千円札が多いということだ。

 

思い返せば、小学生のころの自分が使っていた千円札はいつも四つに折れ曲がっていた。

 

だから、四つに折れ曲がった千円札はそれだけで、宝物であり、何でも買えるような大金だった。

 

お年玉をもらった瞬間は嬉しいけど、嬉しそうな顔をしたら負けだと思ってて、わざとそっけなく貰ってたっけ。

 

兄弟三人でお金を出し合って一つのゲームを買ってたっけ。

 

親に貯金されるのが嫌で、机の引き出しの奥の方に大事に隠しておいたなあ。

 

 

 

今はどうだろう。バイトで時間分稼ぎ、銀行に振り込まれる形のないお金。

 

銀行から下ろしたときに手に入る真っ新な千円札。

 

むしろ、千円札に四つ折りの後がついていたら、なんとなく残念な気分になることもある。

 

まるで、千円札の価値は折れ目の無さにあると信じているみたいだ。

 

でも、子どものころは、折れている千円札が当たり前だった。

 

折れている千円札が宝物だった。

 

そういう小さなことを忘れてしまっていたなあと思う。

 

大人の価値観に媚びまくって子どもの価値観を忘れていたなあと思う。

 

四つ折りの千円札を見たら、お年玉を何に使おうか必死に考えていたころの自分や、いまも考えている子どもたちとその両親のストーリーを思い出そう。

 

千円札に千円以上の価値を空想できるということを思い出そう。

 

そう思った日曜の午後だった。

 

でもやっぱり、まっさらな一万円札は何物にも代えられないよなあ。

 

お金が欲しいと思った日曜の夜だった。

シークヮーサーサワー

昨日、久しぶりに「甘いお酒」を飲んだ。

 

お酒を飲み始めたころは甘いお酒の方が好きで、でも少しかっこつけたくて強がってビールとかウイスキーとか焼酎とか日本酒とかを飲んでいた。

 

3杯目ぐらいで「そろそろサワーを飲んでもいいだろう」ってなってからのお酒が好きだった。

 

だから、ビールとかの甘くないお酒は甘いお酒を飲むための通過儀礼のようなものだった。

 

それがいつしか甘いお酒は飲まないようになっていった。

 

ビールを美味しいと思うようになっていった。

 

お酒を飲み始めたころは大人になったなとは全く思わなかったが、ビールを美味しく感じたときに初めて大人になった感じがした。

 

そうなると、もう甘いお酒には戻れなくなっていった。

 

「あまいお酒は飲まないという大人っぽさ」の仮面を外すことができなくなっていった。

 

大学4年生になり、先輩がどんどん卒業し、いつのまにか後輩だらけになった今は、ビールを美味しいと言い続けることが、そういう頼れる自分を演出するための方法となっていた。

 

 

 

昨日、高校のときの担任の先生と二人きりで飲んだ。

 

久しぶりの再会だった。

 

先生は別の高校に赴任されて、僕は教育実習生として母校に帰ってきていた。

 

卒業して以来4年振りだろうか。先生は4年という月日を、4年分だけしっかりと年をとっていた。

 

僕が成人してから初めての再会だった。つまり、僕は初めて「恩師」とお酒を飲んだ。

 

最初はなんとなく緊張もしていたのだけれど、一杯目のビールで二人で乾杯をし、近況報告をするにつれて緊張はほぐれていった。

 

高校のときの面談とはまた違うけれど高校のときと同じような距離感で話すことができた。

 

僕は大人になるために大学で4年間いろんなことにチャレンジしてきたつもりだったのだけれど、先生との距離は縮まっていなかった。

 

だから、あの頃と同じように、高校生だった自分と担任だった先生との距離感のまま話せたのだろう。

 

ちょうど同じタイミングでビールが空いた。

 

次もとりあえずビールにしようかなって思った。それが大学で身につけた背伸びの仕方だ。

 

でも、先生は「シークヮーサーサワー」を頼んだ。「俺、これ好きなんだよね」という照れ隠しと一緒に。

 

それを聞いて僕は無性に先生と同じシークヮーサーサワーが飲みたくなった。

 

その後慌てて頼んだシークヮーサーサワーは美味しかった。

 

大学生活や就職活動で身につけたちっぽけで役に立たないプライドとともに飲み干した。

 

シークヮーサーのほろ苦さに笑われているような気がした。「美味いもんは美味いだろ?お前は何のために飲んでいるんだ?」

 

 

 

その後も、世間話や少し先の将来の話をして、また別れた。

 

先生に相談しようかなと思っていたことは結局言わないままだった。

 

でも、それで良かったような気がする。

 

思い返せば、高校のときも先生に相談したことは無かった。

 

何も相談せずに大阪大学受験を勝手に決めて、勝手に受験しますと宣言した。

 

今思えば、困った生徒だ。

 

でもそんな僕に先生は、一言「分かった」としか言わなかった。

 

合格の報告のときも、一言「信じてたよ」と言ってくれた。

 

あのときから、僕は誰かに相談するということができなかった。

 

でも、先生との距離感はそれでよかったのだ。

 

そしてこの距離感は今も変わらない。

 

そしてこの変わらなさに救われ続けるのだろうと思う。

 

 

背伸びしながらビールを飲み続けるであろう僕も、先生の前ではきっといつまでも「シークヮーサーサワー」のままなのだ。

親父

大阪の桜はもうほとんど散り、葉桜になってしまった。

 

桜前線は北上を続け東北の桜が見ごろを迎えるころだろう。

 

仙台の桜は綺麗だろうか。いつかは見に行きたい。そう思うようになったのは、なにも東日本大震災があったからではない。

 

僕の寮に仙台出身の人がいたからだ。

 

その人は四十歳半ばにして大学に入学した。

 

それまでは海外を気ままに放浪したり、為替トレードで生活費を稼いだり、日本で塾講師をしたり、5股をかけたり、女性に自動車を貢がせたり、とにかくいろんなこと、しかも僕には到底できないようなことをしていた。

 

僕たちは彼を「トムさん」と呼んでいた。そしていつしか「親父」と呼ぶようになった。

 

でも、なにも親父らしいことはしてくれなかった。

 

日曜になると、テニス部の声援がうるさいと愚痴を言ってくるし、為替トレードでウン十万損したと泣き言を言ってくるし、女の子をデートに誘うためのメールの打ち方をにやけながら教えてくるし、めんどくさいと思うときもあったけどまあとにかく面白い人だった。

 

そしてそんな親父のことが僕たちは好きだった。

 

 

 

 

ある日、寮で大事に飼っていたテンテンという猫が姿を見せなくなった。

 

テンテンは子猫との縄張り争いにも負けるようなだらしなくて、でも、どこか憎めない猫だった。

 

親父はテンテンが部屋に来ると、きたねぇなぁとか文句を言いながら鰹節をあげていた。その鰹節はもちろんテンテンのために買っておいたものだった。

 

テンテンは親父によくなついた。べったりというなつきかたではなく、暇だから部屋に来てあげたぞという感じのなつき方だった。

 

親父は親父でやっぱりテンテンのことが好きだった。

 

だから、テンテンがいなくなったとき、いつもは出不精な親父が、スコップ片手に裏山を探しに行った。

 

次の日も探しに行った。

 

でも、結局テンテンは見つからなかった。

 

猫は死ぬ間際の姿を飼い主に見せないというが、これは本当なんだなあと思った。

 

 

 

 

 

親父が大学を卒業して一年。親父もこの世を去った。死因は急性循環器不全。死因まで破天荒な人だ。

 

猫のような人だと思う。僕にとってテンテンと全く同じ最期のお別れの仕方をされてしまった。

 

でも僕は、まだ信じられない。

 

世界を放浪してた人だから、あの世とこの世もついうっかり放浪してしまって、いまはこの世にいないだけに違いない。すぐに間違いに気づいて帰ってきてくれるはずだ。

 

でも、そんなはずはないことも知っている。僕だって人並みの死生観は携えている。

 

ヘビースモーカーで、しかもフィルターの無い煙草をわざわざ吸っていたから、きっと肺を悪くしたんじゃないか。年なんだから禁煙しとけよと思う。

 

でも、そう思ったところで親父は帰ってこない。

 

親父にとって大学生活はどのような意味を持っていたのか。

 

40歳を過ぎての大学生活。人生で初めての大学生活。

 

遅すぎた青春?早すぎた余生?

 

そのどちらにしても、楽しんでくれていたのならそれでいい。

 

たまたま、同じ大学同じ寮同じユニットで二年間も一緒にいた。

 

 

 

僕はすごく楽しかった。

 

田舎者だから、親父のような自由な生き方ができることを知らなかった。

 

田舎者だから、40過ぎても大学に入学して、卒業したら一年中スノボーするんだとか、スノボーできなくなったら画廊付きのカフェ開くんだとか言い続けてもいいってことを知らなかった。

 

いつも10時まで自習室で勉強している親父の姿は実は僕の頑張らなくっちゃという気持ちの大きな支えになっていた。

 

親父が卒業したとき、またいつか仙台に会いに行こうと心の中で考えていた。

 

そのころには、きっと復興も進んでいて、僕の進路も決まっていて、なんかいい感じじゃんと勝手に空想していた。

 

別れは、いつかの再会のための盛り上がる要素だと考えていた。

 

でももう会えない。

 

卒業して一年で逝っちまうのは早すぎる。

 

せめて、もう一年待ってほしかった。

 

東京でおしゃれなカフェを開いてる親父を見たかった。

 

その頃には今は苦手なコーヒーも一丁前に飲めるようになって、もっと大人な話もしたかった。

 

内定決まったら必ず手を合わせに行くから。それまで、ふらふらせずに待っててな。

 

天国では禁煙しといてな。テンテンに鰹節あげといてな。

親父、いや、トムさん、今までありがとう。そして、これからもよろしく。