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壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

「君の名は。」のレビューがつまらないから、ちゃんと書いてみた

 インドネシアで「君の名は。」を観ようとおもい、インターネットで上映時間も全部調べて、満を持して映画館に行ったら、もう終わってて観れなかった。インターネットの情報があてにならないのがインドネシアだ。しかし、「君の名は。」へのおもいがすてきれず、その思いを吐きだす形で、ここにしるしたい。

 

 9月に日本で観てから、心のなかで反芻してきただけなので、思い違いもあるかもしれない。先に謝っておく。そして、めちゃくちゃネタバレをしている。「ほしのこえ」と「秒速5センチメートル(以下、秒速)」の内容にもふれている。ご注意ねがいたい。

 

 結論からいえば、やっぱりこの映画は、いい映画だとおもう。多くの人が指摘しているように、映像はきれいだし、音楽も(少なくとも僕にとっては)気持ちいい。キャラデザも今回は非常に魅力的だ。声優の演技も自然だし、ストーリー展開もドタバタ劇からの一転してシリアスな展開からのハッピーエンドと王道で心地よい。「耳をすませば」とか「時をかける少女」が好きな僕にとって、これほど完璧な青春アニメはないだろう。

 

 こういう好きな映画にであうと、色んな人の評価が気になってレビューをのぞくのだが、誰もかれも、はっきりいって、何もわかってないと反論したくなるほど的外れなことをいっているか、表面的なことの指摘に終始している。本映画のメインである時間の錯誤に大きな破綻があるというのがかれらの主な指摘だが、そんなことはある意味ではどうでもいいのだ。もちろん、作品の中で現実感を出すということは、日常SF的には非常に重要なことだし、そういう基本的な部分がそこなわれていたら世界観に入りこめないとおもう。しかし、僕は、個人的には、本作を観ているときに、不自然さはかんじなかった。瀧も三葉も時間のズレに気づかないのはおかしい!という人には、ふたりがそれに気づかなかったからこそ、その後のふたりの行動の必死さが、際立つんだよと諭したい。気づかなかったから、その失敗をとりかえす必要があるんじゃないだろうか。

 

 しかし、それ以上に、この気づかないということ―それはときに記憶の問題となる―が作品において重要な意味を持っていることを、本稿では、しめしたい。それには、少しばかり、遠回りが必要になる。お付き合いいただきたい。

 

 距離→時間→記憶→忘却という順に論をすすめていく。

 

距離感について

 まず、新海作品は、基本的には、主人公は、ふたりである。それは、きみとぼく、だ。そして、ふたりの仲を裂く展開が待っている。その切なさを味わうのが、醍醐味だ。だから、主人公のふたりは、ふたりのはなればなれになる距離感に、つよく自覚的である。ほしのこえでは、地球にいるぼくと宇宙の彼方にいるきみのメール、つまり、一往復だけで何年もかかるという距離感が提示された。秒速では、小学校の頃の初恋のきみと引っ越しのすえ会えなくなるという距離感、いやむしろ会ってしまったからこそ感じる距離感とでもいうべきものを表現していた。距離感についてあまりに注目しすぎるから、ほかのさまざまな背景を捨象してしまい、それゆえ「セカイ系」といわれたりもした。

 

 そして、この距離感は、私たちも常に感じている普遍的なものである。小説であれば、文学的表現などによってそれを昇華させるのだろうが、新海監督にとって、その表現方法はSF的状況設定に負うところがおおきい。しかし、たったそれだけのことである。それでもたったそれだけのことを彼は描いてきたのだし、「君の名は。」でも描かれている。

 

 SF的設定に惑わされてはいけない。その本質は、何度も言うが、叶わぬ恋の切ない距離感である。まずは、それを読み取らなければならない。しかし、本質を確認した後に、SF的設定という枠に注目すれば、われわれは、その枠によってさししめされた意味に気づくことができる。

 

距離と時間

 新海作品において距離感は常に時間感覚と隣り合わせでしめされる。宇宙の彼方にいるきみと遠くはなればなれになっていると感じるのは、なによりもメールの返信が一年以上もかかるというその時間性によってだった。秒速のラストシーンで描かれていたのは、踏切のこちらとむこうというわずか数メートルの距離でさえ、それまで会えなかった何年間もの積み重ねの前では、まるでそのつかのまの邂逅が幻であったかのように感じられるというものだった。

 

 「光年」という距離の単位が端的にしめしているように、距離と時間は、すくなくともかれの描く作品世界の中では、同じ意味をもつ。それは、つまり、あえない時間が積みかさなれば積みかさなるほど、きみとの距離は遠くなっていくということである。「ほしのこえ」や「秒速」において、主人公のぼくは、きみにあえないままエンディングを迎える。作品中ずっと、きみにあいたいと思いつづけていたにもかかわらず、その一途な願いは、かなわない。なぜなら、あえない時間がふたりをはなればなれにしてしまったからである。この、純化した恋の表現の枠内において、偶然の再会は、起こってはならないのである。

 

時間と記憶

 きみにあえないことで時間は無慈悲にすぎさり、そのことによってさらにきみにあうことが難しくなっていく。しかし、きみにあいたいという感情は、それに反比例して強まっていく。そういったとき、ぼくは、みずからの記憶の中できみとであうことを選択する。秒速で、主人公のぼくが、きみに宛てて送ろうとしていたメールは、ついぞ送られることはなく、携帯の下書きボックスに溜まるだけであった。この行為を、表面だけなぞって、「メールを送ることができなかった」と結論づけることもできよう。しかし、つぎのようにかんがえることは、飛躍だろうか。「かれは、たしかにメールの送信に成功していたのだ」と。それは、「記憶の中のきみに送られたメール」だったと。そういう自分の中にたまり続けるメールを通じてかれは、記憶の中のきみと通じつづけてきたのだと。

 

 時間がたてばたつほど、おもいがつのるとき、記憶の中のきみにあおうとすることは、極めて自然なこころのはたらきだとおもう。こういう経験は、たとえば、初恋とよばれるものや叶わぬ恋とよばれるジャンルにありがちでさえある。新海作品は、映像の綺麗さと巧みな状況設定によって、われわれ観客を惑わしながら、かえってストレートにこの切なさを表現している。踏切のむこうにきみがいるという、秒速のラストシーンは、たしかにきみにあえたシーンではあるが、かれが永年おもいつづけてきた「記憶の中のきみ」ではなかった。あのころのきみではなかった。すこし年をとりすぎてしまったのだ。そういう意味で、あのシーンは、失恋のシーンであった。

 

 時がたってしまったから、距離がはなれる。記憶の中できみにあいつづけるから、現実のきみには、あえない。このジレンマ的状況が、新海作品の切なさを助長している。これが、「君の名は。」にいたるまでのおおまかな背景である。

 

記憶と忘却、そして忘却の忘却

 記憶の中のきみにあいつづけるということは、換言すれば、記憶の中でだけはきみをわすれないということである。したがって、新海作品は、つねに、きみをいかにわすれないでいられるかということを問いつづけてきたともいえる。

 

 そして、わすれるということは、ある意味では、大人になるということでもある。われわれは、大事な記憶をわすれながら生きている。しかし、そのわすれる、といういとなみは、ときおりおもいだす、といういとなみをともなってこそ意味をもつ。

 

 「ほしのこえ」の状況がわれわれに容易に想像させるように、かれは、いつ返ってくるかもわからないメールを、日常生活の中で、わすなれがら待ちつづけ、メールがかえってきたときにおもいだす。このように、普段はわすれているけど、たまにおもいだすということを通じて、主人公のぼくは、成長していく。かれにとってわすれるということは、通過儀礼である。

 

 しかし、忘却の先には、いったいなにがあるのだろうか。私は「君の名は。」を観て、「忘却の忘却」ということばがあたまに浮かんでしまった。つまり、忘却してしまったことさえ忘却してしまうという、そういうことを想像せざるをえなかった。

 

 「君の名は。」は、新海作品の延長線上にある「忘却の忘却」について、明確なメッセージをおくっている。瀧が、どこにあるのかもわからない糸守町の風景を、記憶だけを頼りにデッサンしていく。いつの日にか、それがどこにあるのか確かめようと模索し、現地へむかう。そこで、定食屋の親父に出会う。「これは糸守町だ」「どこにあるんですか?」「隕石で跡形もなく消え去ったよ」。瀧の記憶が薄れ、糸守町のデッサンが描けなくなったとき、糸守町の新たな絵は、永遠に彼の手から生まれなくなる。なぜなら、それをおもいだす「よすが」となる現実の街がすでになくなっているから。瀧が糸守町についてわすれるということは、もうおもいだすことが不可能になるということであるということだ。これは、たんなる物忘れとはちがう。「わすれる」というより、「おもいだせなくなる」といったほうが近い。

 

 ここで、われわれは気づく。三葉は?と。三葉はどこにいるの?と。瀧は、いつか三葉に出会えると思っていた。観客もそうだ。でも、もう逢えないかもしれないということがあきらかになる。

 

 いままでの新海作品だったら、記憶の中できみにあっていればよかったのだ。しかし、隕石によって滅亡した町を前に、そういう解決はもはやできない。いつかは三葉をわすれてしまうだろう。それは、もう二度とおもいだすことはできない種類の忘却である。ここに、永遠の別れを予感することは、決して突飛ではないだろう。いや、正確には、永遠の別れではない。記憶を失うということは、この文脈において、会ったという事実さえうしなわれてしまうということで、最初からであっていなかったということになってしまうのだ。わかれることさえ、ふたりには許されていない。

 

 この「忘却の忘却」は、作品の中で、もう一度明確にしめされる。手に名前を書きあうシーンだ。かたわれ時が終われば、名前はおぼえていられないから、わすれてもわすれても、そのつど、ちゃんと、おもいだせるように。

 

 名前をよぶということは、存在を認めることのもっとも原初的な形態である。われわれは、「赤くて丸くて甘いもの」を「りんご」と呼ぶことでそれに存在を与えることができる。「私が昨日買ったりんご」と呼べば、さらにしっかりと認識できる。名前は、アイデンティティである。しかし、瀧が書いたのは、名前ではなかった。「好きだ」。名前を忘れても、その存在を忘れても、関係性の中にのみ生じる「好き」という感情をかれは、優先した。それは、何よりも強い告白であると同時にかれらしい選択であった。

 

「忘却の忘却」を生きる

 さて、この「忘却の忘却」というテーマは、震災後の社会の大きなテーマであるように私は思う。隕石という自然災害が作中の鍵となっていることからも、災害が本作の裏テーマのひとつになっていることは想像できよう。

 

 震災で跡形もなくながされてしまった街。そして、土盛りや堤防などの復興工事によって、永遠にうしなわれてしまった故郷の風景。あのころの記憶をわすれるということは、おもいだすことがなくなるということだ。私たちは、津波と復興によって永遠にうしなわれた街の上で暮らしているのである。土の下の街をわれわれは、決してわすれることはないとしても、子どもたちにそれを正確に伝えることは、むずかしい。子どもの子どもとか、そのさらに子どもとなるとさらにむずかしい。でも、わたしたちは、そういう社会を生きている。その解決策は、残念ながらまだないようにおもえる。

 

 本作は、ふたりがであうことでハッピーエンドとして幕を閉じた。これは、必然だったとおもう。「ほしのこえ」や「秒速」で、ふたりがであいなおすことができなかったのは、記憶の中のきみとであうことができたからだった。

 

 しかし、記憶がうしなわれ、「忘却の忘却」という状態になったとき、われわれは、であうことができない。すれちがっても気づくことができない。それはまるで名前のないものに対して適切に呼びかけることができないことと似ている。だからこそ、逆説的には、「忘却の忘却」においては、現実にであいなおさなければならない。記憶の中で会えないのだから、現実でふたりは会わなければならないのだ。そして、ふたりは、適切に互いを呼びあうことが困難であるがゆえに、こう問いかけるほかない。「君の名は?」

 

 忘却の忘却の果てにあったのは、距離も時間も記憶も無化してしまうような現実の邂逅であった。それは、かたわれ時のような幻想的な出会いではなく、須賀神社の境内へ続く階段での身体性をともなう出会いだ。ふたりは以前から互いを知っていたが、それがふたりの初対面だったのだ。再会よりもつよく運命的に引かれあった初対面のシーンは、ふたりの失われた記憶の重みを私たち観客が担っているという意味で、私たちの心を強く揺さぶったのだ。ふたりの、ふたりにはわからない運命をわれわれは、われわれは知っている。われわれは、映画を通じて、フィクションのふたりの、運命の承認としての役割を与えられたのだ。だから、ふたりの物語を、われわれは、おぼえておかないといけないのである。