壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

黙祷

黙祷とは会話である

 

 

午前5時10分。

 

まだ神戸の街は起きていない。

 

20年前のちょうど今日、この場所で地震が起きた。

 

そして、何人もの人が亡くなった。

 

何人もの人が、大切な人を亡くす悲しみを経験した。

 

それは、ほとんど同時に。しかし、それぞれ個別の経験だ。

 

 

神戸の中心にある東遊園地には、多くの人が集まっていた。

 

5時45分。

 

一分後に備えて、時報が会場に鳴り響く。

 

十秒ごとに時間を報せてくれるそれは、無機質な声で、淡々と進む。

 

ーーゴジヨンジュウゴフンゴジュウビョウ

 

目を閉じる人が増える。

 

僕はその光景を目に焼き付けようとする。

 

どうやって、この時を過ごせばいいのだろう。

 

ーーゴジヨンジュウロクフン

 

僕も目を閉じる。

 

だから、その時、ほかの人がどのように過ごしていたか、知らない。

 

だけど、きっと、みんな、会話をしていたのだろうなと思う。

 

目を閉じないと、微かな音は聞こえない。

 

死者の声は、きっと、か細い。

 

20年もたてばなおさらだ。

 

だから目を閉じる必要があるのだ。

 

 

 

竹の灯篭の中には、ひとこと、墨で書かれている。

 

「絆」が多かった。

 

誰との絆だろうか。

 

それは、当初は、死者との絆であったのかもしれない。

 

しかし、時がたつにつれ、生活が進むにつれ、少しずつ今を生きる人との絆になった。

 

それは、健康なことで、そうやって人は「忘れる」ことで、生きていくのだ。

 

でも、20年たった今日ぐらいは、もう一度、「あの人」と話してみたくもなる。

 

そのためには、微かな明かりと、目を閉じることと、周りにもそういう人がいることが必要なのだ。

 

 

 

目を開けると、また、「今」に戻される。

 

そうやって生きていけばいいのだ。

 

また来年、話をすることを約束しておくことが必要なのだ。

 

そうやって一年ずつ生きていく。

 

死者の声を聞くことは、生きるということなのだ。

 

死者との絆とは、生きるということなのだ。