壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

断定的比喩/比喩的断定

べての言葉は比喩でしかない。

 

 

エントリで僕は、否定形を重ねることでしか表現できないことがあると書いた。それは、たとえば、映画を見たときの自分の心にうずまく感情を正確に表すことができないというような話をした。ここで言う「正確」というのは、非常に強い意味である。それは「まったくひとつの誤解もなく」という意味である。でも、僕たちは、普段の生活で、「まったくひとつの誤解もなく」誰かに何かを伝えることなんて不可能だって知っている。自分の思いを自分自身ですら正確に把握することはできない。だから、僕たちは、何らかの言葉を、それが正確ではないと知りながら、使う。つまり、言葉というのは、何かを表す際の近似値でしかない。君が僕に伝えようとしてくれている「楽しい」や「悲しい」も、評論家が無邪気に言い放つ「このままでは日本が危うい」も、僕の家のテーブルの上にある「りんご」も、理解可能ではあるけれども、聞き手の受け止め方に多少なりとも依存してしまう時点で「正確」ではない。だから、言葉は、いつまでたっても「正確」ではなく、言わば近似値でしかなく、もう少しそれっぽく言えば、比喩でしかない。

 

 

 

べての言葉は比喩であるとここで言うとき、それは、非常に強い意味である。ふつう、比喩というのは「○○は××のようだ」という使い方で、何らかのイメージを膨らませて、読み手や聞き手の受け取り方の自由度を高める効果がある。でも、僕の比喩という言葉の使い方は、もっと一般的である。なにせ、言葉はすべて比喩なのだから。たとえば、「○○は××である」という断定的な表現も、○○=××であると「正確」に「ひとつの誤差もなく」断定しきれなければ、それは比喩である。いささか強引に言い切ってしまえば、この世に、比喩以外の言葉なんてない。僕とあなたが全くの同一人物で、全く同じ経験をしていなければ。

 

 

 

 

て、こういう種類の、「断定的表現をしているのに、その実、それは比喩である」という主張を、ここでは、断定的比喩と呼ぼう。何を言っても、言葉を用いる以上は、この断定的比喩からは逃れられない。だから、正確に何かを伝えようと思うとき、僕たちは、否定形を重ねることしかできないのである。

 

 

 

 

 

定的比喩について、具体例を示そう。いや、この世のすべての表現は断定的比喩なのだから、具体例と言われても面食らってしまうかもしれない。具体例と言っても、断定的比喩そのものの具体例ではなく、「断定的に言ってしまっているけど、この言葉は何らかの比喩でしかないんだと自覚している」ことの比喩である。そして、よりによって、Mr.Childrenの歌詞から引用する。なぜなら僕はミスチルが好きで、ほとんどすべての歌詞を暗記してしまっているから、テーマに見合った歌詞を探し出すのが楽なのだ。

 

 

 

 

 

Mr.Childrenは、というか、作詞者の桜井和寿は、しかしながら、何かを断定することの少ないライターである。それでも、ほとんど例外的に断定表現として使っている表現がある。それは「君が好き」というフレーズである。

君が好き
この響きに 潜んでる温い惰性の匂いがしても
繰り返し 繰り返し
煮え切らないメロディに添って 思いを焦がして

 

「君が好き」。そうひそやかに宣言しておきながら、その言葉には「温い惰性の匂い」がするという。「温い惰性の匂い」とは何だろうか。それは、いろんな複雑な感情が胸の内にあるんだけれど、それらを強引に「君が好き」という短いフレーズにまとめてしまうという怠惰のことである。翻って考えてみれば、「君が好き」という力強い断定口調は、しかしながら、やはり何か(たとえば、胸にうずまくもやもや)の比喩的表現にしかなりえず、むしろその力強さゆえに温い惰性の匂いがしてしまうのである。

 

 

 

 

 

葉は、内化する。言い換えれば、言葉によって人間は形成される。それは、子どもだけでない。大人もだ。「予言の自己成就」的な例を出してもいいし、もっと単純に、自分の好きな名言を暗記して、それが自分の性格の柱のようになっていることを想像してみてもよい。もっともっと単純に、「だるい」が口癖になっていれば、だるくなくてもだるさを感じてしまうというようなことを想像してもよい。いずれにせよ、僕たち人間は、言葉を使うことで、僕たちのアイデンティティを、その言葉の方に寄せていってしまう生き物である。

 

 

 

 

 

ういった例を、「Forever」の歌詞から見ていこう。

Forever
そんな甘いフレーズに少し酔ってたんだよ
もういいや もういいや
付け足しても 取り消すと言っても
もう受付けないんなら

 

なんだか僕ら似通ってんだ
ちょっぴりそんな気がした
本当はお互い頑張ってた
近づきたくて真似た

きっと嘘なんてない だけど正直でもないんだろう

 

「きっと噓なんてない」。当時付き合っていたであろう恋人を真似ることは、嘘ではない。ずっと一緒にいたいと思うことは、事実であったに違いない。「forever」なんて甘いフレーズを言ってしまうことも、嘘ではない。しかし、「正直でもない」のは、それが、真似た成果手に入れた本来の自分ではないものだったからで、そんな甘いフレーズもなんらかの比喩にすぎなかったからである。

 

 

 

 

 

こまで断定的比喩の話をした。これは、いささか希望のない話になってしまった。まとめれば、僕たちが使う言葉は、原理的に比喩表現にしかすぎないということだった。このことに自覚的であればあるほど、断定的な表現は、使うことができなくなってしまう。だから、僕は、前のエントリで「否定形を重ねる」ことの良さを書いたのだった。でも、今回はそうではなく、逆に比喩的な表現を用いることの力強さを試しに提示してみたい。

 

 

 

 

 

 

日本大震災が起きたとき、Mr.Childrenは、ライブツアーの真っ最中であった。震災とその後の自粛ブームによって、彼らもいくつかの公演を中止した。その後、ツアーを再開させたとき、ライブの一曲目が以前までのセットリストと変わっていた。以前までは「NOT FOUND」という曲だったのが、震災後数公演は「蘇生」になっていた。この曲は、いくぶん抽象的な曲で、「虹」「夢」「未来」などの言葉が並ぶ。

そう何度でも 何度でも
君は生まれ変わって行ける
そしていつか捨ててきた夢の続きを
ノートには 消し去れはしない昨日が
ページを汚してても
まだ描き続けたい未来がある

叶いもしない夢を見るのは
もう止めにすることにしたんだから
今度はこのさえない現実を
夢みたいに塗り替えればいいさ
そう思ってんだ
変えていくんだ
きっと出来るんだ

 

「さえない現実」を塗り替えるのは、「夢みたい」なものである。はっきり言って、この歌詞は何も言っていないに等しいくらい、ふんわりとしている。でも、イメージをつかむことができる。「ノート」や「ページ」が何を表しているか、解釈のすべてを自分にゆだねられているから、かえって「正確に」「寸分の誤差もなく」それらの言葉を内化することができる。桜井和寿の歌とともに「きっと出来るんだ」と心の中で唱えてしまう自分がいる。なぜなら、これらの歌詞が、まるで自分から発せられた言葉のように感じるからである。こういう力が、歌に限らず、絵画や映画、小説などにある。それらはみな、何かの情報を正確に伝達しようとするメディアではない。だからこそ、比喩的な表現によって、かえって断定的な、それ以外の意味にはとれないような、そんな効果が現れてくる。

 

 

 

 

 

ういう表現のありかたを、比喩的断定と呼ぼう。それは、否定を重ねることによって外堀を埋めていくような表現ではなく、共感の力による直接的な表現の力である。