壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

否定形を重ねる/君が好き

Mr.Childrenの歌詞のほとんどすべてを書いている桜井和寿は、痛烈な皮肉屋である。

例えば、デルモという歌は、以下の歌いだしから始まる。

東京―パリ間を行ったり来たりして
順風満帆の20代後半だね
バブリーな世代交代の波押し退けて
クライアントに媚び売ったりなんかして

 

主人公は、20代後半、仕事に精が出る売れっ子モデル。「デルモ」というタイトルは、モデルの業界用語である。

バブリーな曲調と相まって、この曲は、モデルの耽美的でもあり、ビジネスライクでもあるそんな世界観を表現しているのかなと思われる。さらにサビの出だしは、こうである。

 

デルモって言ったら“えっ!”ってみんなが
一目置いて 扱って

 

まさに優越感である。と思いきや、その直後、歌詞は以下のように急展開を遂げる。

 

4 5年も前なら そんな感じに
ちょっと酔いしれたけど
寂しいって言ったら ぜいたくかな
かいかぶられて いつだって
心許せる人はなく 振り向けば一人きり

 

東京とパリを行ったり来たりするほどの世界的売れっ子モデル。彼女は、周りから一目置かれるくらいの立場にある。しかし、この後、歌詞では「寂しい」「一人きり」と続く。こちらがこの曲のメインテーマである。桜井和寿は、モデルの孤独感を表現するために、曲の一番を丸々使って、あえて栄華を強調していたのである。

こういう展開の歌詞は、Mr.Childrenの中で珍しくもない。言ってしまえば、王道パターンである。例えば、「ファスナー」という曲では、

 

昨日 君が自分から下ろしたスカートのファスナー
およそ期待した通りのあれが僕を締めつけた

大切にしなきゃならないものが
この世にはいっぱいあるという

 

と一番の歌詞が続く。ここまで聴いていると、「ああなるほど、いくぶん下世話だけれど、大切にしなきゃならないものっていうのは君ってことなんだな」と僕たちは想像できる。しかし、桜井和寿は、そんなうぶな妄想を一瞬で葬り去る。

 

でもそれが君じゃないこと
今日 僕は気付いてしまった

 

「君じゃない」のである。あまりに急に裏切られて脳みそが追い付かなくなりそうだ。上の歌詞と下の歌詞は連続している。そこに一切の中略は無い。だからこそ「期待した通りのあれ」が生々しく響くのだが。

 

 

 

 

 

 

近、僕は、否定形について考えている。いや、正確に言えば、否定形は、実にポジティヴだということを考えている。

ふつう、否定形、すなわち「Aではない」という形式の文は、ネガティヴと表現される。たしかに「AではなくてB」という形式の場合、AはBのネガ(=裏面)であるとされる。たとえば、「私が好きなのは、りんごじゃなくてみかん」と言ったとき「りんご」は、端的に「みかんではないもの」の一例として扱われる。言わば、「りんご」は「みかん」に従属している。「みかん」が無ければ「りんご」が会話に出てくることは無かった。この文脈において「りんご」は単独として価値を持たない記号である。つまり、B(=「みかん」)の正当性(=いかに好きであるか)を主張するためにA(=「りんご」)が恣意的に持ち出され、このときの表現形態が否定形なのである。これが「Aではない」のもっとも基本的な使い方である。

さきほどのミスチルの歌詞を例に挙げれば、「デルモ」は、「栄華を極めた世界的モデルである私ではなく、理解者もいない孤独な私」についての歌詞であった。B(=「孤独な私」)の正当性(=いかに孤独であるか)を主張するためにA(=「栄華を極めたモデルとしての私」)が持ち出される。AはBの「ネガ」であるというとき、こういうことが想定されているのである。

 

 

 

 

 

かし、否定形は、もう一段複雑な形式をとる。それは「Aではない。だけど、なんて言えばいいのか分からない」という形式である。

これは、先ほどまでの形式とはかなり異なる否定形の使い方である。先ほどまでは、表現すべき、主張すべきBがあり、それを補強する形で、Aを否定形、つまりBならざるものとして扱ってきた。しかし、今回は、Bがそもそも何なのか分からないのである。ただわかるのは、「Aではない」ということのみである。 

そして、僕たちはむしろ、こういう形の否定形の方をよく使っている。例えば、心の琴線に触れる映画を友達と観に行った後、鑑賞後のカフェで友達と映画で感じた感情を話し合おうとして、しかし、自分の感情がうまく言葉にならないようなことは、よくあるだろう。「う~ん、なんて言えばいいのかな。。感動したというわけじゃないんだけど、でもつまらなかったっていうわけでも無くって、よくわかんないけど。。」みたいになりがちだ。友達はきっと助け舟を出してくれる。「それってもしかして○○ってこと?××ってことかな?それとも△△とか?」でも、そのどれも、自分の思いを的確に表現はしてくれない。「う~ん、○○ではないし、××とも△△とも違うんだよな~」。

自分の感情は、基本的に、正確に語ることはできない。ぴったりの言葉はほとんど存在しない。しかし、僕たちは、「こういうふうに表現すれば、まあまあ近いこと言えてるし、それでいいや」と思って妥協してしまう。このこと自体は、いいことだと思う。そうしないといつまでたってもコミュニケーションが成り立たない。でも、自分の気持ちに素直になればなるほど、そういう類似の表現で妥協できなくなってくる。だから、いくつもの否定形を重ねて、外堀を埋めていくように表現していくのだ。逆の視点から見れば、そうやって否定形を重ねていくことは、この上なく素直な表現のあり方なのだと思う。

 

 

 

 

定形を重ねることでしか、僕たちは、語りえないものに到達しようとすることができない。そして、語りえないものは、僕たちの本質をついている。僕たちが何らかの本質的なものを語ろうとするとき、そこに、「~である」という単純肯定は、用いえないはずである。なぜなら、肯定文は、なんらかの近似でしかなく、その近似に回収されないように否定文を重ねていかなくてはいけないのだから。