壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

家族写真とストーリー

 

家族写真は「  」である。

家族写真は「 」である。

 

  プロの写真家が撮った写真。そう言われたときに想像するのはどのような写真だろう。一面に広がる星空や、満開の桜などの風景写真か、それとも、ホームランを打ったその一瞬を抜き取った写真か。浅田政志さんの撮る写真はそのどちらでもない。家族写真だ。

 そのどちらでもないと書いたが、これは適切な表現ではない。正しくは、「そのどちらも兼ね備えている」と言った方がいいだろう。僕たちにとって家族とはあまりに当たり前すぎてまるで風景のようでもあるし、そのくせ刻一刻とその姿を、微妙なんだけれど、変えていくため一瞬を切り取ることも必要なように思える。だから、家族を撮った写真は、いろんな写真の要素を兼ね備えているようで、実はとてもとても深い。

 浅田さんの撮る家族写真は単なる思い出の再現にとどまらない。当時の想い出を今思い出して写真にする。つまり、「怪我した小学生のときの思い出と、撮影したときの別々の思い出が、二つ重なって見える」(p35)のである。浅田さんにとって家族写真とは、家族にとっての瞬間をリアルタイムで撮る「家族アルバム」ではなく、家族にとっての瞬間を思い出して、また家族が集まる契機として作用しうるものなのである。

 写真には制限がある。時間としての制限と、そして、空間としての制限である。時間としての制限は想像しやすい。写真は静止画であるから、その一瞬しか切り取れない。空間としての制限も考えてみれば当然である。レンズが映す範囲は限られている。家族全員が同じ写真に写るためには同じ場所にいなければならない。そのため、写真を撮っているその時、出演者は時間と空間を共有している。

 家族写真を撮るのは恥ずかしい。だから、僕は正直に言うと家族写真というものを取ろうと思ったことすらない。家族写真とは「」であるという鍵括弧内に僕は何も入れることができない。他の写真との違いが頭では分かっているんだけど、なんとなく実感としてつかめない。所詮、写真は写真だろと思ってしまう。写真を撮るのも気恥ずかしければ、写真を見返すのすら気恥ずかしい。そこに写っている自分や親やばあちゃんや弟たちそのものをくすぐったく感じるんじゃない。家族一緒に取ろうよっていうそのときの空気感がなんとなくくすぐったいのだ。その空気感を思い出すことから逃げようと思ってしまう。

 浅田さんの撮る家族写真には大きな特徴がある。その写真にはストーリーがある。なぜ家族写真を撮りたいのかといった明確なストーリーがある。そのストーリーは各家庭によってばらばらだ。しかし、共通していることはみんなで写真を撮っている瞬間を共有したいという思いと、それに至るまでのストーリーを共有したいという思いだ。本書では、家族写真が数枚載せられている。みんな笑顔で幸せいっぱいといった写真ばかりだ。その後に、浅田さんの言葉で、その写真が撮られた背景や撮影秘話が語られる。そのストーリーを読んだ後に同じ写真を見ると、それはもはや別の写真に見えてくる。楽しそうなんだけどその裏にあるヒリヒリした感じとか、その一枚に込められた爆発力がより強く感じられる。

 家族写真とは何だろうか。少なくともそれは、ただみんなで集まって撮ればいいというものではない。時間や空間の制限がある中で、それを跳び越えようとせず、その範疇の中で試行錯誤を繰り返していくという営みにこそ意味があるんだと思う。だからその一枚の写真には思い出すべきことがたくさん詰まっている。その思い出すことに直視するには僕はまだ若すぎるのかもしれない。でも、その若すぎて恥ずかしがり屋な自分という今をとった家族写真も「アリ」なのかなと思う。ちょっと家に帰りたくなった。