壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

僕がボランティアを続ける理由

仲直りするのが苦手だ。

 

 

 

一言「ごめん」って言えばいいのに、その言葉がなかなか口から出てこない。

 

頭では分かっている。

 

こんなところで変な意地張ってないでさっさと謝っちゃったほうがいいことぐらいは。

 

でも、それができない。

 

自分には非が無いと思い込むことでなんとかその場をやり過ごしてしまった以上、もう素直になれないのだ。

 

この性格は小さいころから変わらない。

 

小学生のとき一緒に帰ってた友達と、ほんとに些細なことで言い合いになって、もうすぐ別の方向に帰らなくちゃいけなくなる時があった。

 

でも、最後の、本当に最後の一瞬まで「ごめん」が言えなかった。

 

なんとなくバツが悪い。

 

そこで編み出したのが、「ごめん」の代わりに別の言葉を言うことだった。

 

その言葉は「また明日」だ。

 

 

 

そうやって別れて、次の日何事も無かったかのようにまたその友達と遊ぶ。

 

それでよかった。

 

だから、まともに謝る方法を知らないまま大人になってしまった。

 

それは困ったことだ。

 

 

 

そういったわけで「また明日」とか「また今度」という言葉に僕は弱い。

 

それを聴いただけで何でも許せるような気がしてくる魔法の言葉だ。

 

だから、なんだか恥ずかしくて僕からそんなこと言える人はほとんどいない。

 

でも、それを言ってくれる人はいる。

 

それはボランティア先で出会った人たちだ。

 

 

 

どうしてボランティアを続けているんですかと訊かれることがたまにある。

 

そのたびに、僕は難しく考えてしまって、結局、答えが出なかったり、楽しいからですかねえと言ってお茶を濁してきた。

 

でも、単純に考えて、続ける理由なんてボランティア先の人から「また今度ね」って言われたから、また会いに行ってるってだけなような気がしてならない。

 

それ以上の説明はいらないような気がするのだ。

 

何かをしたいからボランティアしてるというわけじゃない。

 

「また今度」の約束を果たすためにボランティアに行って、また別れ際に「また今度」の約束を結ぶ。

 

そうやって続いている。続いてしまっている。

 

 

 

 

僕は「また今度」が無性に好きな人種なのかもしれない。

 

それは、やっぱり、小学生のころから一ミリも変わっていない。