壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

四つ折りの千円札

昨日今日と、サークルの関係で地域のお祭りに出店していた。

 

基本的に小学生を対象としたくじ引きのようなゲームで出店したので、当然主な客層は小学生だった。

 

ひと段落つき、お金の計算をしていると、あることに気が付いた。

 

四つに折ったときにできる線のついた千円札が多いということだ。

 

千円札を四つに折る。つまり、お年玉としての役割を背負った千円札が多いということだ。

 

思い返せば、小学生のころの自分が使っていた千円札はいつも四つに折れ曲がっていた。

 

だから、四つに折れ曲がった千円札はそれだけで、宝物であり、何でも買えるような大金だった。

 

お年玉をもらった瞬間は嬉しいけど、嬉しそうな顔をしたら負けだと思ってて、わざとそっけなく貰ってたっけ。

 

兄弟三人でお金を出し合って一つのゲームを買ってたっけ。

 

親に貯金されるのが嫌で、机の引き出しの奥の方に大事に隠しておいたなあ。

 

 

 

今はどうだろう。バイトで時間分稼ぎ、銀行に振り込まれる形のないお金。

 

銀行から下ろしたときに手に入る真っ新な千円札。

 

むしろ、千円札に四つ折りの後がついていたら、なんとなく残念な気分になることもある。

 

まるで、千円札の価値は折れ目の無さにあると信じているみたいだ。

 

でも、子どものころは、折れている千円札が当たり前だった。

 

折れている千円札が宝物だった。

 

そういう小さなことを忘れてしまっていたなあと思う。

 

大人の価値観に媚びまくって子どもの価値観を忘れていたなあと思う。

 

四つ折りの千円札を見たら、お年玉を何に使おうか必死に考えていたころの自分や、いまも考えている子どもたちとその両親のストーリーを思い出そう。

 

千円札に千円以上の価値を空想できるということを思い出そう。

 

そう思った日曜の午後だった。

 

でもやっぱり、まっさらな一万円札は何物にも代えられないよなあ。

 

お金が欲しいと思った日曜の夜だった。