親父
大阪の桜はもうほとんど散り、葉桜になってしまった。
桜前線は北上を続け東北の桜が見ごろを迎えるころだろう。
仙台の桜は綺麗だろうか。いつかは見に行きたい。そう思うようになったのは、なにも東日本大震災があったからではない。
僕の寮に仙台出身の人がいたからだ。
その人は四十歳半ばにして大学に入学した。
それまでは海外を気ままに放浪したり、為替トレードで生活費を稼いだり、日本で塾講師をしたり、5股をかけたり、女性に自動車を貢がせたり、とにかくいろんなこと、しかも僕には到底できないようなことをしていた。
僕たちは彼を「トムさん」と呼んでいた。そしていつしか「親父」と呼ぶようになった。
でも、なにも親父らしいことはしてくれなかった。
日曜になると、テニス部の声援がうるさいと愚痴を言ってくるし、為替トレードでウン十万損したと泣き言を言ってくるし、女の子をデートに誘うためのメールの打ち方をにやけながら教えてくるし、めんどくさいと思うときもあったけどまあとにかく面白い人だった。
そしてそんな親父のことが僕たちは好きだった。
ある日、寮で大事に飼っていたテンテンという猫が姿を見せなくなった。
テンテンは子猫との縄張り争いにも負けるようなだらしなくて、でも、どこか憎めない猫だった。
親父はテンテンが部屋に来ると、きたねぇなぁとか文句を言いながら鰹節をあげていた。その鰹節はもちろんテンテンのために買っておいたものだった。
テンテンは親父によくなついた。べったりというなつきかたではなく、暇だから部屋に来てあげたぞという感じのなつき方だった。
親父は親父でやっぱりテンテンのことが好きだった。
だから、テンテンがいなくなったとき、いつもは出不精な親父が、スコップ片手に裏山を探しに行った。
次の日も探しに行った。
でも、結局テンテンは見つからなかった。
猫は死ぬ間際の姿を飼い主に見せないというが、これは本当なんだなあと思った。
親父が大学を卒業して一年。親父もこの世を去った。死因は急性循環器不全。死因まで破天荒な人だ。
猫のような人だと思う。僕にとってテンテンと全く同じ最期のお別れの仕方をされてしまった。
でも僕は、まだ信じられない。
世界を放浪してた人だから、あの世とこの世もついうっかり放浪してしまって、いまはこの世にいないだけに違いない。すぐに間違いに気づいて帰ってきてくれるはずだ。
でも、そんなはずはないことも知っている。僕だって人並みの死生観は携えている。
ヘビースモーカーで、しかもフィルターの無い煙草をわざわざ吸っていたから、きっと肺を悪くしたんじゃないか。年なんだから禁煙しとけよと思う。
でも、そう思ったところで親父は帰ってこない。
親父にとって大学生活はどのような意味を持っていたのか。
40歳を過ぎての大学生活。人生で初めての大学生活。
遅すぎた青春?早すぎた余生?
そのどちらにしても、楽しんでくれていたのならそれでいい。
たまたま、同じ大学同じ寮同じユニットで二年間も一緒にいた。
僕はすごく楽しかった。
田舎者だから、親父のような自由な生き方ができることを知らなかった。
田舎者だから、40過ぎても大学に入学して、卒業したら一年中スノボーするんだとか、スノボーできなくなったら画廊付きのカフェ開くんだとか言い続けてもいいってことを知らなかった。
いつも10時まで自習室で勉強している親父の姿は実は僕の頑張らなくっちゃという気持ちの大きな支えになっていた。
親父が卒業したとき、またいつか仙台に会いに行こうと心の中で考えていた。
そのころには、きっと復興も進んでいて、僕の進路も決まっていて、なんかいい感じじゃんと勝手に空想していた。
別れは、いつかの再会のための盛り上がる要素だと考えていた。
でももう会えない。
卒業して一年で逝っちまうのは早すぎる。
せめて、もう一年待ってほしかった。
東京でおしゃれなカフェを開いてる親父を見たかった。
その頃には今は苦手なコーヒーも一丁前に飲めるようになって、もっと大人な話もしたかった。
内定決まったら必ず手を合わせに行くから。それまで、ふらふらせずに待っててな。
天国では禁煙しといてな。テンテンに鰹節あげといてな。
親父、いや、トムさん、今までありがとう。そして、これからもよろしく。