弱さ
弱さとは、共に生きるということである。
この人だって空飛べるわけじゃない
鳥からみたら9秒でも15秒でも同じ「飛べない」世界の出来事だわなあ
そう思わんか兄ちゃん
ということはだ、「歩けない世界」にもきっと―「9秒台」はあるんだ
弱さについて考えてみたい。それは、たとえば、弱さの力であるとか弱さの強さといったたぐいのものである。その手がかりとして、私の経験を少し述べたい。なんてことはない経験だが、今でも心に残っている経験である。
私は毎年9月の中頃に金剛コロニーという辺鄙な山の中にある障害者福祉施設で一週間ほど住み込みでボランティアをしていた。その日、私は50代くらいの男性の方とペアになって一緒に散歩をしたりご飯を食べたりした。その方は障害の程度が重く、私の呼びかけに全く反応せず遠くの方を見ているばかりである。それでも辛抱強く「出身はどちらですか?」「ご家族は?」「好きな食べ物は?」などと話しかけてみるのだが、聞こえているのかどうかも疑わしいくらいに無視されてしまう。そのうち、話しかけるのにも疲れて、ただ隣でぼけっと座っているだけという状態になった。ただ隣にいるだけというのも、それはそれで気まずくなって、手を握ってみた。すると、かすかに手を握り返してくれたような気がした。錯覚でなかったことを確かめるため、手を握りながら先ほどの質問をすると、答えてはくれないが、弱い力で手を握り返してくれた。一般的に彼は、障害が重くてこちらの言っている内容が理解できず自分で考えたことを口にできない、いわゆる「弱い」人なのだが、あの瞬間私は何かを分かり合えたような気がした。「弱い」からこそ伝わってくるものが、そのとき確かにあった。
もう一つ心に残っている経験がある。私は豊中のとある小学校のとある特別支援学級のOB・OGさんたちと毎月一回、交流をしている。その日は、みんなで梅田に映画を見に行って、おいしいランチでも食べようということになった。メンバーの中に全盲の方がいる。彼女は目が見えないため映画の内容を十分に理解することができず、しまいには眠り始めてしまった。*1映画館を出て、彼女に感想を聞くと「楽しかった」と答えてくれた。気を利かせてくれたんだなと思っていると「映画の内容はよく分からなかったけど、みんなと一緒に映画に来れて楽しかった」と教えてくれた。映画を見るという目的を達成できたかどうかではなく、みんなと一緒にただ「すごす」ということの方が彼女にとってよっぽど価値のあることだったと気づかされた。
弱いからこそ伝わってくるものがある。そして、何をするでもなくただ一緒にいるだけで満足することがある。こういったことは何度も経験してはいる。しかし、経験しているだけで終わってしまう。大切なものをことばにすることは難しい。一人ではできないから「弱さの思想 たそがれを抱きしめる」(高橋・辻 2014)を片手に「弱さ」をめぐる思想について、少し述べてみることにする。
まず、弱さとは何であろうか。弱さとは、「有限性」もしくは「制約」と言い換えることができるだろう(高橋・辻 2014)。例えば、経済学者であるE・F・シューマッハーが提唱したことばに『スモール・イズ・ビューティフル』というものがある。『スモール・イズ・ビューティフル』とは、すべての生き物が「どこで成長を止めるかを心得ている」ことを表したことばである。私たちは、生まれたときから有限で制約を抱えた存在である。そして、いわゆる弱者とはその中でも特に制約のきつい人のことを指しているに過ぎないのかもしれない。
「制約」を取り除くことは、よいことだろうか。よいとも言えるし、よくないとも言えるだろう。よいと言う人は、競争主義や功利主義の原理を持ち出すかもしれない。競争で勝つためには、「制約」はできる限り取り除いたほうがいい。そして、あらゆるものが制御可能な状態に置かれていると都合がいい。未来先取り的で前傾姿勢になっている社会(鷲田 2006)において、制約を取り除くという制御は、正当化される。
その一方でそれをよくないと思う人もいるだろう。私もその一人である。しかし、反対するうまいことばが見当たらない。もう一度「弱さの思想 たそがれを抱きしめる」に戻ってみる。
本書では弱さがあるからこその価値が示されている。例えば、イギリスのリーズにある子ども専門ホスピスにおいて、死は子どもと親の残された時間を輝かせてくれるものであり、「逆説的な特別な時間を与えてくれるギフト」(高橋・辻 2014;164)とポジティブに捉え返される。本来であればネガティブに捉えられる死という「制約」をポジティブなものとして抱きしめることが「弱さの思想」であると言える。つまり、「弱さの思想」とは、「敗北力」であり、「敗北力」とは、「敗北とされるものが敗北じゃないということ」(高橋・辻 2014;164)と言うことができる。
また、弱さは逆説的に強いつながりを生む。北海道浦河町にある浦河べてるの家という精神障害者のグループでは、弱さの自己開示が積極的に行われる。精神障害を抱える彼らは、今まで精神障害という弱さを薬で押さえつけなくてはいけなかった。しかし、べてるの家では、自身の症状を積極的に開示する。すると、同じような症状を持つ人と今まで以上に強い結びつきができる。「弱さを絆に」(浦河べてるの家 2002)というモットーがこの状況をよく表している。これが逆に「強さを絆に」だとしたら、うまくいくだろうか。
弱さを制御しないということは、あるがままで一緒に過ごすということにつながる。鷲田(2006)の言うような前傾姿勢の現代社会をある目標へと向かう「めざす」かかわりを求める社会とするなら、私たちは「すごす」かかわり(肥後 2000)を大切にしていかなくてはならない。共生社会は、競争主義の社会の単純な否定ではない。競争主義の論理を認めたうえで、それでもそれだと困る人もいるということを忘れないようにしなければならず、それだと困る人とまずは「すごす」ことに価値が置かれるようでなければならない。競争主義が排除しようとしてきた「弱さ」にこそ、これからの未来があるのではないかとさえ思う。
私たちは、何かしらの制約と共に生きている。それは、「歩けない世界」であったり、「うまくエッセイが書けない世界」であったりする。それを乗り越えないでいることは無駄なことだろうか。乗り越えられない制約は、邪魔だろうか。かえってその制約によって生かされていると思うことがあり、その制約があるからこそ私たちは繋がるのではないかと思うことがある。「弱さの思想」はここを問うている。
参考文献*2
親父その2
親父とは、強がりである。
僕にとって、「親父」と呼べる人は、二人いる。
一人は、実家の親父。
もちろん、血はつながっているし、僕が生まれたときから同じ家で暮らしている。
僕が大学進学のために、大阪に出てきてからは、年に数回も会っていないが、それでもやはり親父は親父だ。
もう一人の親父は、寮の先輩だ。
僕が大学の寮に入ったときに、同じユニットの2学年上の先輩。
学年は2つ上だけど、年齢は30歳くらい上。
年が離れすぎていて、最初見たときは、学生だとは思わなかった。
寮の管理人さんかと思った。
その「親父」は、45で大学に入るまで、世界を放浪していた。
生活費は、FXとかで稼いでいた。
冬になると、カナダでスノーボードして、夏になるとオーストラリアでスノーボードしていた。
現地の日本人と何股もしていた。
で、海外も飽きて日本に帰ってきて、工業高校卒業が最終学歴だったのに、ポンと大学に入っちゃって、ストレートで4年で卒業した。
そして、実家のある名取に帰った。
「親父」が卒業するとき、会いたくなんてないって本気で思ってたけど、まあどうせいつか会えるんだろうなって心の片隅で感じていた。
卒業してから一年後の四月、僕は大学4年生で例に漏れず就活をしていた。
第一志望の会社の面接を翌日に控えたときに、一通のメールが届いた。
「親父」からだった。
めずらしいなあと思いメールを見ると、「親父」じゃない人が、「親父」の突然の死を報せるメールだった。
その年の8月、寮の先輩たちと、「親父」の墓参りをした。
どうせ会えるんだろうなっていう漠然とした予感は、裏切られた。
そこにあるのは、墓石だけで、墓地から見えるのは、めちゃくちゃでかいイオンモールだった。
そして、今日、一年半ぶりに墓参りをした。
そのイオンモールで、線香とかマッチとかを買った。
線香もマッチも 一人用なんて売っていないんだということを初めて知った。
お供え用の花は、腐ると嫌だから買わないでおいた。
「親父」の墓につくころには、あたりは真っ暗になっていた。
雨脚も強くなっていた。
さっき買ったばかりの線香とかマッチが湿気ちゃわないか不安だったけど、あっけなく火がついた。
「親父」の墓には、綺麗な生花が供えられていた。
「親父」に会いに来てくれる人がいることが何よりもうれしかったし、どうせ誰も来ないだろうから、花なんて供えても腐るだけだよねなんて考えていた自分が嫌になった。
とりあえず、花の水だけは変えておいた。
富士山麓の天然水にしておいたから、「親父」も文句あるまい。
なんだか、ふいに二度と来てやるもんかと思った。
墓前に手を合わせていた時は、「また来ます」なんて思ったけど、帰り際になると、「もう来ないぞ」と思いなおしていた。
そんなん、ただの強がりだ。
自分でもわかっている。
「親父」が卒業していったときに、考えていたことと同じだ。
ただ、一つだけ違うのは、もう会えないということだ。
もう会えないということが圧倒的な事実としてある以上は、僕はもう会わないってずっと強がり続けてやる。
たぶん、「親父」も、「もう来なくてもいいからよお~」とか言っちゃってると思う。
だから、もう会ってやらない。
そうやって強がることが、逆説的に「親父」と会える唯一の方法だと思うから。
1.35ポンド
2ポンドと18ペンスが僕のあこがれだった。
ロンドンにいる間、ぼくは学校にブラックヒースという駅から行っていた。
その駅前に、ジュースとかお菓子とかお酒とか調味料を売っているコンビニとスーパーの中間のようなお店があった。
そこにいつも通って、50ペンスのクロワッサンを一つと85ペンスのチョコチップデニッシュを一つ買って朝ごはんにしていた。
このふたつがパンの中で一番安かった。
たったそれだけの理由で最初は選んだのだが、食べてみると、日本で買うパンよりバターの香りが豊潤で、口当たりもよく甘さと塩気のバランスが絶妙で、こう言ってしまえば元も子もないが、美味しかった。
僕は、一口で気に入ってしまった。
そのお店のパンのラインナップの中で、高いもの二つがシナモンロールとチョコレートツイストロール―それぞれ99ペンスと1ポンド19ペンス―で合わせて2ポンドと18ペンスになるのだ。
一番安い二つでこれだけおいしいのだから、高い二つはもっとおいしいに違いないという根拠のない自信は、日が経つにつれて、クロワッサンとチョコチップデニッシュを食べるにつれて深まっていった。
そして、ロンドンの最終日がやってきて、その店に行くのも最後の機会になった。
お土産を買いすぎてお金はほとんど余っていなかったが、昼食を抜きにしてもいいと思って、その二つを2ポンドと18ペンスで買った。
いつも決まって1ポンドと35ペンスをレジに渡していたから、この日はちゃんとコインが足りているか不安だった。
その時の僕は、恥ずかしさと誇らしさが入り混じったような顔をしていたと思う。
お釣りを受け取ることもせず受け取ったパンの小袋からは、シナモンのいい香りがした。
駅のホームに行くまでに待ちきれず、信号待ちをしている間に、シナモンロールを一口ほおばる。
美味しい。
シナモンの香りが口の中に広がる。
しかし、何か違う。
美味しいんだけど、拍子抜けだった。
チョコレートツイストロールも豪快に口に入れる。
やはり何か違う。
期待値が高すぎたのか。
いつもの安い二つのほうがおいしく感じられた。
食べ終わり空になった小袋を駅のごみ箱に捨て、釈然としない気持ちを抱えながら、ちょうど来た電車に乗り込んだ。
もう二度とあの店に行かないのかと思うと、悔しくなってきた。
僕にとってイギリスの味は、間違いなく50ペンスのクロワッサンと85ペンスのチョコチップデニッシュだった。
きっと、2ポンドと18ペンスはずっと憧れのままのほうが良かったのだ。
憧れているからこそ、いつものクロワッサンとデニッシュも美味しく感じられたのかもしれない。
もう日本に着く。
時差の関係で、まだ体内時計は真夜中だが、日本はもう朝になっていた。
不思議なもので、朝だと思うと、無性にあの二つ―1ポンドと35ペンスのほう―が食べたくなる。
今度は、この二つを憧れにして、日本でおいしいパンを食べよう。
いつか、ロンドンにまた行った時に、この二つを買おう。
その時の僕は、たぶん、恥ずかしさと誇らしさが入り混じった顔をしているだろう。
家族写真とストーリー
プロの写真家が撮った写真。そう言われたときに想像するのはどのような写真だろう。一面に広がる星空や、満開の桜などの風景写真か、それとも、ホームランを打ったその一瞬を抜き取った写真か。浅田政志さんの撮る写真はそのどちらでもない。家族写真だ。
そのどちらでもないと書いたが、これは適切な表現ではない。正しくは、「そのどちらも兼ね備えている」と言った方がいいだろう。僕たちにとって家族とはあまりに当たり前すぎてまるで風景のようでもあるし、そのくせ刻一刻とその姿を、微妙なんだけれど、変えていくため一瞬を切り取ることも必要なように思える。だから、家族を撮った写真は、いろんな写真の要素を兼ね備えているようで、実はとてもとても深い。
浅田さんの撮る家族写真は単なる思い出の再現にとどまらない。当時の想い出を今思い出して写真にする。つまり、「怪我した小学生のときの思い出と、撮影したときの別々の思い出が、二つ重なって見える」(p35)のである。浅田さんにとって家族写真とは、家族にとっての瞬間をリアルタイムで撮る「家族アルバム」ではなく、家族にとっての瞬間を思い出して、また家族が集まる契機として作用しうるものなのである。
写真には制限がある。時間としての制限と、そして、空間としての制限である。時間としての制限は想像しやすい。写真は静止画であるから、その一瞬しか切り取れない。空間としての制限も考えてみれば当然である。レンズが映す範囲は限られている。家族全員が同じ写真に写るためには同じ場所にいなければならない。そのため、写真を撮っているその時、出演者は時間と空間を共有している。
家族写真を撮るのは恥ずかしい。だから、僕は正直に言うと家族写真というものを取ろうと思ったことすらない。家族写真とは「」であるという鍵括弧内に僕は何も入れることができない。他の写真との違いが頭では分かっているんだけど、なんとなく実感としてつかめない。所詮、写真は写真だろと思ってしまう。写真を撮るのも気恥ずかしければ、写真を見返すのすら気恥ずかしい。そこに写っている自分や親やばあちゃんや弟たちそのものをくすぐったく感じるんじゃない。家族一緒に取ろうよっていうそのときの空気感がなんとなくくすぐったいのだ。その空気感を思い出すことから逃げようと思ってしまう。
浅田さんの撮る家族写真には大きな特徴がある。その写真にはストーリーがある。なぜ家族写真を撮りたいのかといった明確なストーリーがある。そのストーリーは各家庭によってばらばらだ。しかし、共通していることはみんなで写真を撮っている瞬間を共有したいという思いと、それに至るまでのストーリーを共有したいという思いだ。本書では、家族写真が数枚載せられている。みんな笑顔で幸せいっぱいといった写真ばかりだ。その後に、浅田さんの言葉で、その写真が撮られた背景や撮影秘話が語られる。そのストーリーを読んだ後に同じ写真を見ると、それはもはや別の写真に見えてくる。楽しそうなんだけどその裏にあるヒリヒリした感じとか、その一枚に込められた爆発力がより強く感じられる。
家族写真とは何だろうか。少なくともそれは、ただみんなで集まって撮ればいいというものではない。時間や空間の制限がある中で、それを跳び越えようとせず、その範疇の中で試行錯誤を繰り返していくという営みにこそ意味があるんだと思う。だからその一枚の写真には思い出すべきことがたくさん詰まっている。その思い出すことに直視するには僕はまだ若すぎるのかもしれない。でも、その若すぎて恥ずかしがり屋な自分という今をとった家族写真も「アリ」なのかなと思う。ちょっと家に帰りたくなった。
僕がボランティアを続ける理由
仲直りするのが苦手だ。
一言「ごめん」って言えばいいのに、その言葉がなかなか口から出てこない。
頭では分かっている。
こんなところで変な意地張ってないでさっさと謝っちゃったほうがいいことぐらいは。
でも、それができない。
自分には非が無いと思い込むことでなんとかその場をやり過ごしてしまった以上、もう素直になれないのだ。
この性格は小さいころから変わらない。
小学生のとき一緒に帰ってた友達と、ほんとに些細なことで言い合いになって、もうすぐ別の方向に帰らなくちゃいけなくなる時があった。
でも、最後の、本当に最後の一瞬まで「ごめん」が言えなかった。
なんとなくバツが悪い。
そこで編み出したのが、「ごめん」の代わりに別の言葉を言うことだった。
その言葉は「また明日」だ。
そうやって別れて、次の日何事も無かったかのようにまたその友達と遊ぶ。
それでよかった。
だから、まともに謝る方法を知らないまま大人になってしまった。
それは困ったことだ。
そういったわけで「また明日」とか「また今度」という言葉に僕は弱い。
それを聴いただけで何でも許せるような気がしてくる魔法の言葉だ。
だから、なんだか恥ずかしくて僕からそんなこと言える人はほとんどいない。
でも、それを言ってくれる人はいる。
それはボランティア先で出会った人たちだ。
どうしてボランティアを続けているんですかと訊かれることがたまにある。
そのたびに、僕は難しく考えてしまって、結局、答えが出なかったり、楽しいからですかねえと言ってお茶を濁してきた。
でも、単純に考えて、続ける理由なんてボランティア先の人から「また今度ね」って言われたから、また会いに行ってるってだけなような気がしてならない。
それ以上の説明はいらないような気がするのだ。
何かをしたいからボランティアしてるというわけじゃない。
「また今度」の約束を果たすためにボランティアに行って、また別れ際に「また今度」の約束を結ぶ。
そうやって続いている。続いてしまっている。
僕は「また今度」が無性に好きな人種なのかもしれない。
それは、やっぱり、小学生のころから一ミリも変わっていない。
黙祷とコーヒー
二日酔いの体に熱いコーヒーが沁みる。
海外に行きたかったけど、行けなかった僕が考えたこと
巷では就活が始まったらしい。
ぼくも一年前はリクルートスーツを身にまとい、よく知りもしない企業の説明会を聞いてはふむふむうなずいてみたりして、
エントリーシートとやらもたくさん書き、でも、ほんとにこんなんで何が分かるっていうんだとか考えてた。
なんとなく「アンチ就活」みたいなスタンスでやってきてたけど、一応、第一志望の企業は見つかったし、そこに落ちたときはかなりショックだった。
就活が始まる前、3回生の10月ごろ、僕は海外に行こうと考えてた。
旅行じゃない、留学でもない。
青年海外協力隊だ。
神戸まで行って説明会を受けて、アドバイザーのおっちゃんに相談した。
そしたら、「君は阪大なんだから、青年海外協力隊に行くより、JICAに就職した方がいい」と言われた。
「貴重な三年間を青年海外協力隊に費やしても、そのことをきちんと評価してくれるところはほとんどない」とも。
その瞬間、僕は後悔した。
もっと早く海外への道を考えていれば、2回生のときに留学しておけば就活とも被らないしベストだったのかとやっと気づいた。
本気で考えるのが遅すぎた。3回になってからじゃ厳しかった。
今、海外に行こうか迷ってる人が何人かはいると思う。
僕の周りは結構真面目な人が多い。
早くしないと手遅れになることに気づいている人も多いと思う。
でも、ぼくは、あえて海外に行くことをお勧めしない。
いや、正確に言うと、日本にいても大丈夫だということを伝えたい。
だから、久しぶりにブログを書いた。
僕は当時、海外に行かないとダメな気がしていた。周囲の「できる」奴らに置いていかれるような気がしていた。
海外に行かないと自分が磨かれないような気がしていた。
就活の役に立つような気がしていた。
たしかに、海外に行くことはいい武者修行になると思う。
英語ペラペラはかっこいいし、海外で試行錯誤しながら過ごす期間は大きな財産になるだろう。
それはきっと間違いない。
でも、じゃあ、「海外に行かなかった一年間」は成長していなかったのかと言われればそんなことはないと思う。
ぼくは、むしろ、日本にいたからこそできたことがたくさんあるように思う。
障害者支援のボランティアを濃く続けることができたし、その経験は今執筆中の卒論にしっかり反映されている。
日本にいたから出会えた人々の導きによってぼくは来年以降の進路を決定した。
海外になんか行かなくてもちゃんとなんとかなる。
ちゃんと将来の種は埋まっている。
それを見過ごしたり、見過ごしたふりをしていたらもったいないと思う。
海外に行っちゃったほうがもったいないということだってあるはずだ。
それでもやっぱり僕は海外に行ってみたいと思う。
海外に行かないとわからないこともいっぱいあると思う。
だけど、海外に行くのは今すぐじゃなくてもいいし、とりあえず、いまは、目の前のことにしっかりと目を向けていたい。
いまいる場所を大事にしたい。
武者修行できるのは何も、遠いところだけではない。
遠くにある場所だけがユートピアじゃない。
だから、ぼくは置かれたところで咲けばいいと思う。
今いる場所を正解に変えていけばいいと思う。
海外に行かないという選択肢だってちゃんとある。
周りの大人たちだって、一度も海外になんか行かずにかっこいい人たくさんいる。
海外に行けなかったことは悔しいけど、たしかに悔しかったけど、負けじゃない。
だから、僕は、とりあえず、もうちょっと「ここ」で頑張ってみようと思えている。