壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

英語の名前

将来、自分に子どもができたときのことを想像することがある。その勢いで、娘の結婚式でいかに泣くかということを目標に、いろいろ考えたりもする。娘からの手紙のときにはじめて娘の前で涙を見せたいから、厳格な父親でいこうとか、娘の婚約相手があいさつに来た時も無口でやりすごそうとか(相手からしてみればいやな父親だ)、そういう演技のイメージが固まってくると、今度は、そうやって演技をしていることを見守ってくれる人と結婚したいなとか、結婚相手のイメージまで浮かんでくる。すべては、娘の結婚式の感謝の手紙のところで泣くための人生。産まれたのが息子の場合は、全く考えたことない。

 

では、子どもの名前をどうしようかと考えたりもする。自然にあやかった名前がいいなと思う。草花が入った名前とか。あとは、これからの時代、グローバル化だから、英語圏の人でも読みやすい名前がいいなとか思ったりもする。

 

僕の名前は、英語圏の人からしたら、ひどく発音しにくいようで、一発で正確に発音できた人はいない。会うたびに、「君の名前はどうやって発音するんだっけ?」と聞いてくる人さえいる。

 

困るのは、カフェに行ったときだ。カフェでコーヒーを注文すると、コーヒーができたときに呼ぶための名前を聞かれる。馬鹿正直に僕の下の名前を言うと、全く聞き取ってもらえない。仕方なく、スペルを伝えるのだが、そのスペルも彼らにとっては書きなじみのないものだから、よく間違えられる。

 

だから、いっそ、次からは、英語圏の人の名前を名乗ろうかと思っている。こう思い始めたのは、実は、もう一つ理由がある。

 

ジンバブエ出身で、こちらの大学の僕の同僚が先日、突然亡くなった。40歳前後で、いつも元気な彼だったから、訃報を知らせるメール読んだとき、ひどく驚いた。彼は故国ジンバブエで会議に出ているときに昏倒し、病院に運ばれたものの処置が間に合わず帰らぬ人となってしまった。イギリス人だらけの大学で、アジア人の僕をいつも気にかけて優しくしてくれた彼だったから、突然の別れに僕は、それを現実だと受け止めることができなかった。

 

時の流れは残酷だから、いつか彼のことも忘れてしまうのだろうか。それは嫌だ。だから、僕は、彼を忘れないために、自分のコーヒーショップ限定での英語名を決めた。Bernard。彼の名前だ。イギリスでコーヒーを注文するたびに、彼を思い出そうと思う。そうやって、自分の中で、時間をかけて追悼しようとおもっている。

昼の生活と夜の生活

イギリスは日本の人口の半分だから昼の生活しかないということに気付いたのは、僕が昼夜逆転の生活に陥ってからだった。

 

そのころ僕は、大事な申請書をずっと書いてて、その間に学会でアメリカに行ったり、アメリカでマイコプラズマ肺炎にかかってずっと寝てたりしたから体内時計が狂ってしまって、イギリスに帰って来てからというもの、朝の8時ごろに寝て昼過ぎに起きるという生活になってしまった。

 

 

申請書を書くだけなら家にいながらでもできるし、当初はそれほど不便していなかったのだが、夜中(体内時計的には昼)にお腹が空いて、コンビニでも行こうかなと思ったときに、お店がどこも開いてなくて初めて困った。イギリスには、基本的には24時間営業のお店がない。たまに駅前とかに中東とか東欧から来た移民がやっている小さなお店があり、それは24時間営業なのだが、いずれにせよ、その数は圧倒的に少ないし、家からも遠い。

 

日本にいたときも、大学院生だった僕は、いい身分だったから、昼夜逆転の生活をして論文を書き上げていた。そのころは、昼間に生きている人とほとんど同じ生活ができた。必要なものがあれば近所のコンビニで大抵はそろうし、お腹が空けば牛丼屋に行けばいい。そこでは、昼間の生活と同等のサービスが受けられる。

 

日本では、昼の生活と夜の生活があり、それぞれにそれなりの人口を抱えている。昼間に働く人もいれば、夜に働く人もいるし、昼間にお酒を飲む人だって、夜に商談をまとめる人だっている。そして、昼も夜もお腹が空けばコンビニ弁当や牛丼を食べる。昼の生活と夜の生活は、時差がちょうど12時間あるだけの全くパラレルな世界線である。日本では、この二つが半日ごとに繰り返されている。

 

だから、イギリスで、僕が感じたことは、この国には夜の世界線が無いんだなということだった。昼間の12時間だけで成り立つ世界。もちろん、夜に起きている人もたくさんいる。けれど、彼らはナイトクラブで踊ったり、パブでお酒を飲んだりしている昼の世界の住人たちである。日本のように夜働き昼寝るという夜の世界の住人ではない。

 

それには、いろんな理由があると思う。社会学的な理由、経済学的な理由、文化的な理由、宗教的な理由。でも、僕は、シンプルに、人の少なさがその理由なんじゃないかなと思ったりもする。昼間の世界だけですっぽり収まる人口。日本の約半分の人口。日本は、人が多いから、昼の世界からあふれ出したはぐれ者たちが夜の世界を開拓していったのだ。そうやって、12時間おきにパラレルな二つの世界が出来上がった。

 

夜の世界のない国で、はみ出してしまった僕は、夜中、窓から星を見るためにカーテンを開ける。隣の部屋やそのまた隣の部屋のカーテンは閉まっている。きっともう寝ているのだろう。そして、いつしか朝になり、眠くなり、僕は日光を遮断するためにカーテンを閉める。ちょうどそのころ、隣の部屋ではカーテンが明けられるのだろう。まるで、夜と昼がそこで区切られているかのように。

人違い

 僕はよく夢を見る。夢の中は現実世界の続きで、知っている人が登場する。知人や家族や先輩や後輩。それは僕がイギリスにいても変わらない。たまに英語をしゃべることもあるけど、「この英語で文法的に合ってるかな」とちゃんと不安も感じている。

 

 この前、実家のおばあちゃんが出てきた。おばあちゃんは80代後半で、数年前にくも膜下出血で倒れてからは車いす生活を余儀なくされている。夢の中のおばあちゃんも車いすに座っていて、口数は少なかった。どういう流れかは忘れてしまったのだが、突然おばあちゃんに抱き寄せられた。おばあちゃんは、少し泣いていた。その場所がどこかはわからないけど、車いすに乗るようになってからおばあちゃんはデイケアにしか行かなくなったから、きっと実家のおばあちゃんの部屋だっただろう。僕も、よく分からないままに、少し泣いていた。

 

 目が覚めた。さっき見た夢を反芻する。おばあちゃんに抱き寄せられたことなど一度もなかったから、不思議な感じがした。そしておばあちゃんが泣いているところさえ一度も見たことがなかったことに気付いた。あのきついリハビリをしているときでさえ、リハビリ中に転んで、また骨折してしまったときでさえ、おばあちゃんは孫の僕の前では涙を見せなかった。

 

 そう考えると、あの夢がやけに意味深に思えてくるのだった。「虫の知らせ」。縁起でもない言葉が脳裏をよぎった。いてもたってもいられず、親にラインした。「おばあちゃんに変わりはない?」って。うちの親は、スマホを携帯しないから、中々返事が来ない。やきもきして電話しようかと思ったときに返信が来た。「おばあちゃんは今日も元気です」。僕は、ほっと胸をなでおろした。

 

 でも、そうなると、今度は、あの夢のやけに鮮明なリアリティが却って気になってくるのだった。あそこで涙を浮かべていたおばあちゃんは、一体何だったのだろう。泣いていたことだけ、確かな手触りがあって、そのくせ、どんな顔をしていたのかが思い出せなくなっていた。

 

 ああ、これはもしかしたら、「虫の知らせ」の知らせる相手を間違えたのだなと思った。きっと、どこかのおばあちゃんが自分の孫に最期を知らせるために夢に出てきたのだけれど、間違えて僕の夢に出てきてしまったのだろう。そう考えて、僕は、そのおっちょこちょいの、見ず知らずのおばあちゃんにそっと手を合わせたのだった。

大きなかき氷を上手に食べるのはむずかしい  

 

ある女性と話していて、そういえば今年はまだかき氷を食べていなかったということに気がついた。べつに毎年欠かさず食べているわけでもないのだが、もう夏も去るのにかき氷を食べていないのでは、秋を迎えられないという気分になり、早速、美味しいかき氷屋さんを検索した。スマートフォン用に作られたサイトに載っているお店のうちいくつかのお店に目星をつけておいて、翌日月曜に行こうと決めた。その女性は、次の日は仕事であったので、僕が一人で行き、その写真を送るということになった。

 

 

翌朝、早速、かき氷を目当てに散策をする。目星をつけておいたところのいくつかは定休日であったり、かき氷の提供をもうやめてしまっていたりしていて、少し歩き回ることになった。最近めっきり冷えてきたと思っていたのに、この日は見事な秋晴れだった。正味30分ほどしか歩かなかったが、リュックを背負った背中は少し汗ばんでいた。結局僕は、当初のリストには入っていなかったお店に入った。

 

 

 

そのお店は、かき氷屋さんではないが、おしゃれな和風カフェレストランという感じで、清潔で、月曜日の午前中だったからか客はまばらで、照明も暖かく、心地よい雰囲気だった。すぐに店員さんがメニューを持ってきてくれたが、メニューを見るまでもなく、表紙に書いてあった木苺練乳かき氷を注文する。

 

 

5分と待たずに出てくる。大きい。大きくて赤い。大体iPhone2つ分くらいの高さの、上から氷をそのまま自由落下させたときにできる円錐という感じの形だった。その頂上にメレンゲらしきふわふわした白いものが乗っている。赤いソースは木苺で、甘酸っぱくて、美味しい。来た甲斐があったと思った。実に夏らしい、優雅なひと時だった。

 

 

ただ、そのかき氷は、非常に大きく、そのくせに乗っているお皿が小さく底も浅めで、上から崩しながら食べていくと、何%かはお皿から零れ落ちてしまった。零れ落ちた、氷のクラッシュは、ジワリと融けていき、あまりきれいではない。どうして、こんなに大きいかき氷の、そのお皿がこんなに可愛らしいのだろう。

 

 

そして、そのかき氷は、非常に大きいから、全部食べ切るまでにお皿の上で融けきってしまう。最後の方は、木苺シロップの混じった冷たい水を飲んでいるにすぎない。早く食べてしまおうにも、人体の限界というものがあるし、そもそも、かき氷を早食いするというのは、風流ではない。せっかく食べるのだからちゃんと雰囲気に浸りたい。

 

 

食べていくうちにこぼれてしまうし、最後は融けてしまう。そんな失敗の連続を、僕は、話す相手がいない。そのことが何よりも、切なかった。いや、敢えて良く言えば、「夏の終わり」を感じた。インスタジェニックなかき氷を、悪戦苦闘しながら食べるとき、何よりも必要なのは、「美味しいけど難しいね」って言い合う相手なのであった。失敗談を笑い合える相手だった。それは、ことによると、将来、僕がこのことをすっかり忘れてしまったときに、思い出話として笑いながら語りかけてくれる相手なのかもしれない。

 

 

 

 

 

そういう人がいないまま、大きなかき氷を上手に食べるのはむずかしい。

 

 

ヤクザのように金をむしり取るイギリスビザ

結論を、この記事の一番下からコピペする。興味を持たれた方は、読んでいただき、友人や、ことによると英国の要人に自由に広めてほしい。

 

結局僕は、総額10万円弱支払い、結果として、ビザがちゃんと届くかもよくわからないでいる。イギリスビザ申請は、値段とサービスが全く見合っていない。その高額な申請代金と追加料金は、チキンゲームに放り込まれた自分を安心させるためだけに有効である。これを典型的なヤクザ商売と言わずして何と言おうか。イギリスのビザは取らないことをおすすめする。

 

ぼくは9月15日から10か月イギリスに行ってくる。在外研究というやつだ。だから、イギリスのビザを取らなればならない。調べてみると、Tier5ってやつと、Academic Visitorってやつがあるらしく、どっちで申請したらいいのかぼくには判断つかなかった。そこで、研究員としてお世話になる向こうの大学に聞くと、「わからん」と言われ、こちらの資金面で援助してくれている日本学術振興会に聞くと「ビザに関する質問には答えられないことになっている」と言われ八方ふさがり。仕方なく、きっとこうだろうと思い、Academic Visitor(正確にはStandard VisitorのBusiness (Academic)という分類)で申請をした。今日は、その面接が終わったところだ。

 

まず、イギリスビザに関する問題としては、情報が皆無であるという点である。

英国政府は、具体的な提出書類について何も明示しない。そのため、疑心暗鬼にかられた我々は、「きっと不必要だろうけど、最終的にリジェクトされるよりはマシ」という備えあれば憂いなしのチキンゲームに強制的に参加される。そこでのNash解は、言わずもがな、「ありとあらゆる書類を用意する」である。

しかも「ありとあらゆる書類を用意」した人は、大体受かる。そして、受かったという情報をネットに載せてくれる。すると、ある意味で過剰な「申請書類リスト」が出来上がる。はっきり言って、それらをすべて集めるのにめちゃくちゃな時間がかかる。例えば、僕は、

  • Webアプリケーションフォームのプリント
  • 大学からの招待状
  • CV
  • 在学証明書
  • 卒業証明書
  • 成績証明書
  • 学振の採用証明書
  • 若手海外挑戦プログラムの採用証明書
  • 戸籍謄本
  • 通帳の取引明細
  • 預金残高証明書
  • 往復航空券の控え
  • 滞在ホテルの予約確認書

を揃えた。すべて英語で発行できるものは発行し、できないものは専門の業者に頼んで翻訳証明書付きの翻訳を出してもらった。翻訳証明書がいるというのは、英国政府のホームページに書いてるが、どれくらいの厳密さが必要か(つまり、自分で翻訳してもいいのか、業者に頼むべきなのか)については書かれていないため、チキンゲームの鉄則として、確実なほう=業者に依頼というのが、ビザ申請の定石となっている。全部そろえるのに1か月はかかった。

 

そして、イギリスビザ申請、もう一つの問題が、めちゃくちゃ高いということだ。

まず、ビザの申請に3万5千円かかる。そしてビザ申請のときにプライムタイムという午後の時間帯でもビザ申請の面接を受けられる(申請には面接が必須だ)権利を1万1千円で売っている。さらに、翻訳してもらうのに、ぼくは2万円弱かかった。

もっと安くなるのではないかというご指摘もあるのかもしれない。それはわかる。ぼくも常に安い方法を探していた。しかし、ここで思い返してほしい。これは、「チキンゲーム」なのだと。つまり、「安く済ますか」「確実に申請するのか」を天秤にかけたとき、「安く済まして失敗した時のリスク」があまりに高すぎるのだ。なぜなら、リジェクトされたら基本的にもうイギリスへ行けなくなるから。したがって、合理的な思考の持ち主は、高くなってでも確実にビザ申請ができる方を選んでしまうというわけだ。

さらに、ビザの申請の面接は出国日の1か月前からでないと始めることはできないという情報があり、ぼくはその情報を信じて、出国から20日ほど前にあたる本日8月29日に面接を受けに行った。英国政府のHPを見ると、僕の出したビザ区分は10日以内にビザが発行される確率は90%らしい。十分に間に合う。

しかし、いざ面接に行くと発行までに15営業日かかると突然言われた。おかしい。英国政府のHPには「10日」と書いてあったぞ。そのように伝えると、「その情報は古いですから。現在は繁忙期ですので」とにべもなく言われてしまい、仕方なく追加での支払いを決めた。手持ちがないと伝えると、近くのATMの地図を用意してくれた。こういう優しさは、まさにヤクザのようだなと思った。

お金を下ろしてきてもまだ納得いかなかったので、携帯で英国政府のページからビザ発行期間のページを見つけ出し、申請センターの職員さんに見せようとすると、「携帯電話はカバンの中にしまってください」と言われてしまった。安全管理のためらしい。仕方なくこちらから「ではあなた方のパソコンで今すぐ英国政府のページを見てください」と言うと、やはり「その情報は古いですから」の一点張りであった。

家に帰り、申請センターのホームページ(言い忘れたが申請センターは、政府の外注機関なので両者は別物だ)を見てみても「15営業日」という記述はない。政府発信の情報が古いのかもしれないが、では「新しい情報」はどこにあるというのだろうか。調べた限り、どこにもない。そういう重要な情報こそアナウンスすべきなのでは。しかも、3万円払って獲得した「優先審査サービス」も「審査が早くなるというわけではない」らしく、「早くにビザが届く」ということではないらしい。じゃあなんなんだかよくわからん。

で、この記事を書いているうちに、やっぱり理不尽だよなと思い、クレームメール書こうと思ったら、クレームのあて先は、「在マニラ英国大使館」で、「書面」でのみ受け付けるということになっていて(ビザの審査は、なぜかマニラで行うことになっている)、諦めて英国の内務省にメールした。事態は変わらないだろうけど。

ついでに言うと、プライムタイムという有料サービスを、ビザの優先審査サービスと勘違いして、1万1千円払って使ったのだが、これもなかなかのぼったくりであった。サービス内容としてホームページに書いてあるのは以下のとおり。

プライムタイムサービスは通常の申請受付時間(月曜 – 金曜 午前8時から午後2時)外に申請を受付ける有料サービスです。 プライムタイムサービスは月曜から金曜の午後2時から午後4時までのご予約で受付けております。

このサービスにはこれらが含まれます:

  • 待ち時間なし
  • 快適なプライベート空間の提供
  • 専任スタッフによる申請手続きと生体認証登録
  • フリードリンクサービス
  • 無料の郵送サービス
  • 無料コピーサービス(50ページまで)

 まず、「待ち時間」は確かに無かった。これはよかった。次に「快適なプライベート空間の提供」についてはダメ。個室は当然ないし、前の申請者の面談内容も丸聞こえだった。「専任スタッフによる申請手続きと生体認証登録」については、何がどう専任なのか分からなかった。僕ひとりに対して、少なくとも二人のスタッフからサービスを受けた。そもそも、専任である意味が分からない。こちらが質問しようとしても「私どもでは申請の内容には答えられないことになっています」といわれるのみだったし。「フリードリンクサービス」については、端的に言ってウォーターサーバーが置いてあるだけだった。たぶん、誰でも飲めるやつだろう。これをサービスに含めるのは、なかなか厚顔無恥であろう。「無料の郵送サービス」は受けられた。これは普通に頼むと2000円くらいだ。「無料のコピーサービス」は、コピーする必要がなかった。結論から言うと、どうしても午後しか時間が空いていない人以外はプライムタイムにする必要はない。郵送サービスだけ別に申し込めばよい。

申請センターのスタッフに、提出書類の内容について聞きたい場合は追加で2000円かかる。これは例えば、「これで書類は全部そろっていますよね」という確認も含んでいる。つまり、お金を払わなければ、彼らは書類に不足がないかを確かめることはしないのである。これはすなわち、書類の不足については自己責任でお願いしますということだ。だったら、わざわざ申請センターに足を運ばなくても、郵送で事足りるじゃんと思う。今回、郵送でできないことは、指紋認証だけだった。

 

結局僕は、総額10万円弱支払い、結果として、ビザがちゃんと届くかもよくわからないでいる。イギリスビザ申請は、値段とサービスが全く見合っていない。その高額な申請代金と追加料金は、チキンゲームに放り込まれた自分を安心させるためだけに有効である。これを典型的なヤクザ商売と言わずして何と言おうか。イギリスのビザは取らないことをおすすめする。

 

(2017.8.30追記)

ネットで情報収集をしていると、どうやら最近(少なくとも8月)ビザの審査場所がマニラからイギリス(シェフィールド)に急きょ変更され、審査にめちゃくちゃ時間がかかっているらしい。そんなん知らねえよ。あらかじめアナウンスしてくれよと思う。

有料の優先審査サービスを使っても2-3週間かかる人が続出。優先サービス不使用でTier5申請だとなんと3か月以上かかっている人もいるらしい。Academic Visitorでよかったと思うべきなのだろうか。。。

 

(2017.9.2追記)

www.theguardian.com

 

The guardianにビザに関する記事が載っていると友人から知らせがあったので、読んでみる内容をざっくりまとめると、「内務省の予算が削られているから、ビザ関連の費用を値上げすることで利益を出すようになった」という話。ビザ料金が25%ほど値上がりしていたり、再申請させてもういちど支払わせたり、ビザについてのメールを送るのにもお金を取ったりしている。まさに国ぐるみのヤクザ行為である。

 

(2017.9.7追記)

昨日、9月6日にパスポートが返ってきて、中を見るとちゃんとビザが貼られていた。7営業日で返ってきた。ふつうに早かった。

Standard Visitorで優先審査サービスを購入したからなのかもしれない。一件落着である。

断定的比喩/比喩的断定

べての言葉は比喩でしかない。

 

 

エントリで僕は、否定形を重ねることでしか表現できないことがあると書いた。それは、たとえば、映画を見たときの自分の心にうずまく感情を正確に表すことができないというような話をした。ここで言う「正確」というのは、非常に強い意味である。それは「まったくひとつの誤解もなく」という意味である。でも、僕たちは、普段の生活で、「まったくひとつの誤解もなく」誰かに何かを伝えることなんて不可能だって知っている。自分の思いを自分自身ですら正確に把握することはできない。だから、僕たちは、何らかの言葉を、それが正確ではないと知りながら、使う。つまり、言葉というのは、何かを表す際の近似値でしかない。君が僕に伝えようとしてくれている「楽しい」や「悲しい」も、評論家が無邪気に言い放つ「このままでは日本が危うい」も、僕の家のテーブルの上にある「りんご」も、理解可能ではあるけれども、聞き手の受け止め方に多少なりとも依存してしまう時点で「正確」ではない。だから、言葉は、いつまでたっても「正確」ではなく、言わば近似値でしかなく、もう少しそれっぽく言えば、比喩でしかない。

 

 

 

べての言葉は比喩であるとここで言うとき、それは、非常に強い意味である。ふつう、比喩というのは「○○は××のようだ」という使い方で、何らかのイメージを膨らませて、読み手や聞き手の受け取り方の自由度を高める効果がある。でも、僕の比喩という言葉の使い方は、もっと一般的である。なにせ、言葉はすべて比喩なのだから。たとえば、「○○は××である」という断定的な表現も、○○=××であると「正確」に「ひとつの誤差もなく」断定しきれなければ、それは比喩である。いささか強引に言い切ってしまえば、この世に、比喩以外の言葉なんてない。僕とあなたが全くの同一人物で、全く同じ経験をしていなければ。

 

 

 

 

て、こういう種類の、「断定的表現をしているのに、その実、それは比喩である」という主張を、ここでは、断定的比喩と呼ぼう。何を言っても、言葉を用いる以上は、この断定的比喩からは逃れられない。だから、正確に何かを伝えようと思うとき、僕たちは、否定形を重ねることしかできないのである。

 

 

 

 

 

定的比喩について、具体例を示そう。いや、この世のすべての表現は断定的比喩なのだから、具体例と言われても面食らってしまうかもしれない。具体例と言っても、断定的比喩そのものの具体例ではなく、「断定的に言ってしまっているけど、この言葉は何らかの比喩でしかないんだと自覚している」ことの比喩である。そして、よりによって、Mr.Childrenの歌詞から引用する。なぜなら僕はミスチルが好きで、ほとんどすべての歌詞を暗記してしまっているから、テーマに見合った歌詞を探し出すのが楽なのだ。

 

 

 

 

 

Mr.Childrenは、というか、作詞者の桜井和寿は、しかしながら、何かを断定することの少ないライターである。それでも、ほとんど例外的に断定表現として使っている表現がある。それは「君が好き」というフレーズである。

君が好き
この響きに 潜んでる温い惰性の匂いがしても
繰り返し 繰り返し
煮え切らないメロディに添って 思いを焦がして

 

「君が好き」。そうひそやかに宣言しておきながら、その言葉には「温い惰性の匂い」がするという。「温い惰性の匂い」とは何だろうか。それは、いろんな複雑な感情が胸の内にあるんだけれど、それらを強引に「君が好き」という短いフレーズにまとめてしまうという怠惰のことである。翻って考えてみれば、「君が好き」という力強い断定口調は、しかしながら、やはり何か(たとえば、胸にうずまくもやもや)の比喩的表現にしかなりえず、むしろその力強さゆえに温い惰性の匂いがしてしまうのである。

 

 

 

 

 

葉は、内化する。言い換えれば、言葉によって人間は形成される。それは、子どもだけでない。大人もだ。「予言の自己成就」的な例を出してもいいし、もっと単純に、自分の好きな名言を暗記して、それが自分の性格の柱のようになっていることを想像してみてもよい。もっともっと単純に、「だるい」が口癖になっていれば、だるくなくてもだるさを感じてしまうというようなことを想像してもよい。いずれにせよ、僕たち人間は、言葉を使うことで、僕たちのアイデンティティを、その言葉の方に寄せていってしまう生き物である。

 

 

 

 

 

ういった例を、「Forever」の歌詞から見ていこう。

Forever
そんな甘いフレーズに少し酔ってたんだよ
もういいや もういいや
付け足しても 取り消すと言っても
もう受付けないんなら

 

なんだか僕ら似通ってんだ
ちょっぴりそんな気がした
本当はお互い頑張ってた
近づきたくて真似た

きっと嘘なんてない だけど正直でもないんだろう

 

「きっと噓なんてない」。当時付き合っていたであろう恋人を真似ることは、嘘ではない。ずっと一緒にいたいと思うことは、事実であったに違いない。「forever」なんて甘いフレーズを言ってしまうことも、嘘ではない。しかし、「正直でもない」のは、それが、真似た成果手に入れた本来の自分ではないものだったからで、そんな甘いフレーズもなんらかの比喩にすぎなかったからである。

 

 

 

 

 

こまで断定的比喩の話をした。これは、いささか希望のない話になってしまった。まとめれば、僕たちが使う言葉は、原理的に比喩表現にしかすぎないということだった。このことに自覚的であればあるほど、断定的な表現は、使うことができなくなってしまう。だから、僕は、前のエントリで「否定形を重ねる」ことの良さを書いたのだった。でも、今回はそうではなく、逆に比喩的な表現を用いることの力強さを試しに提示してみたい。

 

 

 

 

 

 

日本大震災が起きたとき、Mr.Childrenは、ライブツアーの真っ最中であった。震災とその後の自粛ブームによって、彼らもいくつかの公演を中止した。その後、ツアーを再開させたとき、ライブの一曲目が以前までのセットリストと変わっていた。以前までは「NOT FOUND」という曲だったのが、震災後数公演は「蘇生」になっていた。この曲は、いくぶん抽象的な曲で、「虹」「夢」「未来」などの言葉が並ぶ。

そう何度でも 何度でも
君は生まれ変わって行ける
そしていつか捨ててきた夢の続きを
ノートには 消し去れはしない昨日が
ページを汚してても
まだ描き続けたい未来がある

叶いもしない夢を見るのは
もう止めにすることにしたんだから
今度はこのさえない現実を
夢みたいに塗り替えればいいさ
そう思ってんだ
変えていくんだ
きっと出来るんだ

 

「さえない現実」を塗り替えるのは、「夢みたい」なものである。はっきり言って、この歌詞は何も言っていないに等しいくらい、ふんわりとしている。でも、イメージをつかむことができる。「ノート」や「ページ」が何を表しているか、解釈のすべてを自分にゆだねられているから、かえって「正確に」「寸分の誤差もなく」それらの言葉を内化することができる。桜井和寿の歌とともに「きっと出来るんだ」と心の中で唱えてしまう自分がいる。なぜなら、これらの歌詞が、まるで自分から発せられた言葉のように感じるからである。こういう力が、歌に限らず、絵画や映画、小説などにある。それらはみな、何かの情報を正確に伝達しようとするメディアではない。だからこそ、比喩的な表現によって、かえって断定的な、それ以外の意味にはとれないような、そんな効果が現れてくる。

 

 

 

 

 

ういう表現のありかたを、比喩的断定と呼ぼう。それは、否定を重ねることによって外堀を埋めていくような表現ではなく、共感の力による直接的な表現の力である。

否定形を重ねる/君が好き

Mr.Childrenの歌詞のほとんどすべてを書いている桜井和寿は、痛烈な皮肉屋である。

例えば、デルモという歌は、以下の歌いだしから始まる。

東京―パリ間を行ったり来たりして
順風満帆の20代後半だね
バブリーな世代交代の波押し退けて
クライアントに媚び売ったりなんかして

 

主人公は、20代後半、仕事に精が出る売れっ子モデル。「デルモ」というタイトルは、モデルの業界用語である。

バブリーな曲調と相まって、この曲は、モデルの耽美的でもあり、ビジネスライクでもあるそんな世界観を表現しているのかなと思われる。さらにサビの出だしは、こうである。

 

デルモって言ったら“えっ!”ってみんなが
一目置いて 扱って

 

まさに優越感である。と思いきや、その直後、歌詞は以下のように急展開を遂げる。

 

4 5年も前なら そんな感じに
ちょっと酔いしれたけど
寂しいって言ったら ぜいたくかな
かいかぶられて いつだって
心許せる人はなく 振り向けば一人きり

 

東京とパリを行ったり来たりするほどの世界的売れっ子モデル。彼女は、周りから一目置かれるくらいの立場にある。しかし、この後、歌詞では「寂しい」「一人きり」と続く。こちらがこの曲のメインテーマである。桜井和寿は、モデルの孤独感を表現するために、曲の一番を丸々使って、あえて栄華を強調していたのである。

こういう展開の歌詞は、Mr.Childrenの中で珍しくもない。言ってしまえば、王道パターンである。例えば、「ファスナー」という曲では、

 

昨日 君が自分から下ろしたスカートのファスナー
およそ期待した通りのあれが僕を締めつけた

大切にしなきゃならないものが
この世にはいっぱいあるという

 

と一番の歌詞が続く。ここまで聴いていると、「ああなるほど、いくぶん下世話だけれど、大切にしなきゃならないものっていうのは君ってことなんだな」と僕たちは想像できる。しかし、桜井和寿は、そんなうぶな妄想を一瞬で葬り去る。

 

でもそれが君じゃないこと
今日 僕は気付いてしまった

 

「君じゃない」のである。あまりに急に裏切られて脳みそが追い付かなくなりそうだ。上の歌詞と下の歌詞は連続している。そこに一切の中略は無い。だからこそ「期待した通りのあれ」が生々しく響くのだが。

 

 

 

 

 

 

近、僕は、否定形について考えている。いや、正確に言えば、否定形は、実にポジティヴだということを考えている。

ふつう、否定形、すなわち「Aではない」という形式の文は、ネガティヴと表現される。たしかに「AではなくてB」という形式の場合、AはBのネガ(=裏面)であるとされる。たとえば、「私が好きなのは、りんごじゃなくてみかん」と言ったとき「りんご」は、端的に「みかんではないもの」の一例として扱われる。言わば、「りんご」は「みかん」に従属している。「みかん」が無ければ「りんご」が会話に出てくることは無かった。この文脈において「りんご」は単独として価値を持たない記号である。つまり、B(=「みかん」)の正当性(=いかに好きであるか)を主張するためにA(=「りんご」)が恣意的に持ち出され、このときの表現形態が否定形なのである。これが「Aではない」のもっとも基本的な使い方である。

さきほどのミスチルの歌詞を例に挙げれば、「デルモ」は、「栄華を極めた世界的モデルである私ではなく、理解者もいない孤独な私」についての歌詞であった。B(=「孤独な私」)の正当性(=いかに孤独であるか)を主張するためにA(=「栄華を極めたモデルとしての私」)が持ち出される。AはBの「ネガ」であるというとき、こういうことが想定されているのである。

 

 

 

 

 

かし、否定形は、もう一段複雑な形式をとる。それは「Aではない。だけど、なんて言えばいいのか分からない」という形式である。

これは、先ほどまでの形式とはかなり異なる否定形の使い方である。先ほどまでは、表現すべき、主張すべきBがあり、それを補強する形で、Aを否定形、つまりBならざるものとして扱ってきた。しかし、今回は、Bがそもそも何なのか分からないのである。ただわかるのは、「Aではない」ということのみである。 

そして、僕たちはむしろ、こういう形の否定形の方をよく使っている。例えば、心の琴線に触れる映画を友達と観に行った後、鑑賞後のカフェで友達と映画で感じた感情を話し合おうとして、しかし、自分の感情がうまく言葉にならないようなことは、よくあるだろう。「う~ん、なんて言えばいいのかな。。感動したというわけじゃないんだけど、でもつまらなかったっていうわけでも無くって、よくわかんないけど。。」みたいになりがちだ。友達はきっと助け舟を出してくれる。「それってもしかして○○ってこと?××ってことかな?それとも△△とか?」でも、そのどれも、自分の思いを的確に表現はしてくれない。「う~ん、○○ではないし、××とも△△とも違うんだよな~」。

自分の感情は、基本的に、正確に語ることはできない。ぴったりの言葉はほとんど存在しない。しかし、僕たちは、「こういうふうに表現すれば、まあまあ近いこと言えてるし、それでいいや」と思って妥協してしまう。このこと自体は、いいことだと思う。そうしないといつまでたってもコミュニケーションが成り立たない。でも、自分の気持ちに素直になればなるほど、そういう類似の表現で妥協できなくなってくる。だから、いくつもの否定形を重ねて、外堀を埋めていくように表現していくのだ。逆の視点から見れば、そうやって否定形を重ねていくことは、この上なく素直な表現のあり方なのだと思う。

 

 

 

 

定形を重ねることでしか、僕たちは、語りえないものに到達しようとすることができない。そして、語りえないものは、僕たちの本質をついている。僕たちが何らかの本質的なものを語ろうとするとき、そこに、「~である」という単純肯定は、用いえないはずである。なぜなら、肯定文は、なんらかの近似でしかなく、その近似に回収されないように否定文を重ねていかなくてはいけないのだから。