壁に耳あり障子にメアリー

瑞々しさを失わないための備忘録。ブログ名が既に親父ギャグ。

innocent world

Album: Atomic Heart

 

innocent worldはアルバムAtomic Heartの4曲目であり、ミリオンヒットを記録したMr.Childrenを代表するシングル曲でもある。

 

innocent worldとは、若かかりしころの無垢なまま振る舞えばよかった時代のことであり、それを大人としてふるまわなければならない現在から回顧している。

 

黄昏の街を背に 抱き合えたあの頃が 胸をかすめる
軽はずみな言葉が 時に人を傷つけた

 

黄昏の街を背に抱き合えたあの頃こそがinnocent worldであり、無垢であるがゆえに人を傷つけてしまうこともあった。そんな過去を振り返るもはや無垢ではいられない自分のことを桜井は、「窓に反射する(うつる) 哀れな自分(おとこ)」と表現する。

 

近頃じゃ夕食の 話題でさえ仕事に 汚染(よご)されていて
様々な角度から 物事を見ていたら 自分を見失ってた

 

社会の中で、「様々な角度から物事を見よ」と言われる。しかし、様々な角度から物事を見ていくと、その中心にいたはずの自分がぽっかりとどこかへ抜け落ちてしまったかのようにも感じる。そんな大人になってしまった桜井は、しかしながら、次のように歌うのである。

 

愛に満ちた 季節を想って 歌うよ

そして僕はこのままで 微かな光を胸に
明日も進んで行くつもりだよ いいだろう?
mr. myself 

 

innocent worldであった自身の過去を振り返り、もはや自分はそのころには戻れないと分かりつつも、それならば、今は今の自分がいることに気付き、未来へ向かって歩き出す。まとめてみればMr.Childrenの王道の歌詞展開であった。

ラヴコネクション

Album: Atomic Heart

 

Atmic Heartの3曲目である。この曲は、恋愛に対するわがままな男の自意識が垂れ流されている。

 

Aメロで桜井はこのように歌う。

 

ワンタッチの関係ではエクスタシーはない
トゥマッチな愛情に触れてもつらい

 

Mr.Childrenの歌詞には、韻が頻出する。そして、それは単なる言葉遊びではなく、対比を伴って重要なテーマを提示することが多い。今回は、「ワンタッチ」と「トゥマッチ」で韻を踏んでおり、それは、一夜限りの恋と、濃密な愛をそれぞれ言い表している。桜井は、その両方を否定する。どちらも、彼にとっては不十分なのである。

 

そのくせ、サビに入ると途端に恋に溺れだす。落ち着きがない。

 

Tell me what do you want
Oh what do you think baby
僕を揺さぶってくれよ
What do you want
一体どうして欲しいんだ
今夜も Oh baby baby please yeah

 

一夜限りの軽い恋は嫌だ。かといって、互いに愛を示し合うような関係も嫌だ。ああ、なにかいいことはないか。誰か、「僕を揺さぶってくれ」。このような心情が読み取れるだろう。ある種、わがままな男が、救世主たる女性を探している。「一体どうして欲しいんだ」というセリフは、桜井が女性に向けていっているようで、その実、納得できる理想の恋愛を追い求めてしまっている自分自身に言っているのかもしれない。若さのエネルギーが迸っている。

 

こうなってくると、歌詞の着地点をどうするか、非常に悩ましいところである。「君」に向けて語ればいいのか「僕」にむけて語ればいいのか。桜井の示した解答は、どちらにも明確に答えることなく、Mr.Childrenのお決まりパターン「全部受け入れていくよ」へと収斂していく。

 

なんだかんだ言ったって
老いてく君の美貌も
いいだろう訳ありの過去も
愛してあげよってなもんさ

 

結局、この曲は、最後の優等生的な歌詞も含めて、若者の「正しい」恋愛の悩みについて歌った曲なのである。尾崎豊的な、窓ガラス全部割って、盗んだバイクで走りだすような危ないことはしない。ただただ、恋愛における矛盾に悩んで、それでも最終的には、「大きな愛」に気づく。桜井はこの優等生的感覚を常に持ち続けている作家であるから、大きな支持を集めたのだろう。

Printing - Dance Dance Dance

Album: Atomic Heart (1994)

 

300万枚超の売り上げを記録したアルバムAtomic Heartの1曲目と2曲目。Printingがインストゥルメンタル(というか、プリンターの環境音)なので、Dance Dance Danceが実質一曲目である。ライブでもおなじみの楽曲で、サビのときに爆発演出がかかったりする。「ライブで盛り上がるための曲を作った」と桜井が言う通り、歌詞にそれほど深い意味はないが、深い意味が込められていないからこそ、桜井の作詞術の本質的な部分が透けて見えてもくる。

 

この曲は、桜井和寿が24歳の年に発表された楽曲である。Dance Dance Danceというタイトルとは裏腹な倦怠的な歌詞が多用されつつ、それらを受け入れたうえで未来へ進もうと締められる。Mr.Childrenの歌詞の王道に乗った歌詞展開である。詳しく見ていこう。

 

まず、Aメロでは、日常生活における不満が歌われる。

 

クルクルと地球儀を回して
世界中を旅してる気分
あまりに低い天井を見上げれば
救いようもなく また寝転がる

 

君の傷口 そっと舐めると
よじれて涙がこぼれた
ビタミン剤が主食の生活(くらし)で
ヘルスメーターにも笑われ

 

それに呼応するかのようにBメロでは、社会に向けた不満、猜疑心が吐露される。

 

テレビに映るポーカーフェイス
正義をまとって売名行為
裏のコネクション 闇のルート
揉み消された真相

 

今日もハイテンション ロックンロールスター
虚像を背負って ツイスト&シャウト
みんなでファッション 舞い上がれ
落ちる定めのヒットチャート

 

このころのMr.Childrenは、シングルCROSS ROADやinnocent worldがミリオンヒットを飛ばすなど、急激に売れ始めたころである。テレビ露出も以前とは比べ物にならないほど増えた。そんな中「テレビに映るポーカーフェイス」「今日もハイテンション ロックンロールスター」とは、メディアにちやほやされ、一躍スターと化した虚像の桜井和寿を表していると読むこともできるだろう。その顛末は、彼に言わせれば、「落ちる定め」となっているらしいが。

 

そのことは、サビで如実に示唆される。

 

満たされない夢と欲望の彼方に
残された君と希望の橋を渡ろう

 

資本主義消費社会において、決して満たされることのない「夢と欲望」に直面した彼は、そこから君と抜け出そうとする。抜け出した先で彼らはどうするのか。

 

さぁ 踊ろう 世界が終わるまで
その未来を 僕の手に委ねたなら
Dance Dance Dance

 

ただ踊るのである。桜井和寿は、嫌気がさすほどの資本主義の潮流に投げ出されるが、強く抵抗はしない。あくまで、踊りあかすのみである。そこに思想はない。しかしながら、現在を享受するには最も適した方法であるとも言えるのだろう。

 

ちなみに2番Bメロにある、lonely playとは自慰行為のことである。Mr.childrenの歌詞には、オナニーやセックスを仄めかす箇所が多々ある。この曲もそのうちの一つである。

英語の名前

将来、自分に子どもができたときのことを想像することがある。その勢いで、娘の結婚式でいかに泣くかということを目標に、いろいろ考えたりもする。娘からの手紙のときにはじめて娘の前で涙を見せたいから、厳格な父親でいこうとか、娘の婚約相手があいさつに来た時も無口でやりすごそうとか(相手からしてみればいやな父親だ)、そういう演技のイメージが固まってくると、今度は、そうやって演技をしていることを見守ってくれる人と結婚したいなとか、結婚相手のイメージまで浮かんでくる。すべては、娘の結婚式の感謝の手紙のところで泣くための人生。産まれたのが息子の場合は、全く考えたことない。

 

では、子どもの名前をどうしようかと考えたりもする。自然にあやかった名前がいいなと思う。草花が入った名前とか。あとは、これからの時代、グローバル化だから、英語圏の人でも読みやすい名前がいいなとか思ったりもする。

 

僕の名前は、英語圏の人からしたら、ひどく発音しにくいようで、一発で正確に発音できた人はいない。会うたびに、「君の名前はどうやって発音するんだっけ?」と聞いてくる人さえいる。

 

困るのは、カフェに行ったときだ。カフェでコーヒーを注文すると、コーヒーができたときに呼ぶための名前を聞かれる。馬鹿正直に僕の下の名前を言うと、全く聞き取ってもらえない。仕方なく、スペルを伝えるのだが、そのスペルも彼らにとっては書きなじみのないものだから、よく間違えられる。

 

だから、いっそ、次からは、英語圏の人の名前を名乗ろうかと思っている。こう思い始めたのは、実は、もう一つ理由がある。

 

ジンバブエ出身で、こちらの大学の僕の同僚が先日、突然亡くなった。40歳前後で、いつも元気な彼だったから、訃報を知らせるメール読んだとき、ひどく驚いた。彼は故国ジンバブエで会議に出ているときに昏倒し、病院に運ばれたものの処置が間に合わず帰らぬ人となってしまった。イギリス人だらけの大学で、アジア人の僕をいつも気にかけて優しくしてくれた彼だったから、突然の別れに僕は、それを現実だと受け止めることができなかった。

 

時の流れは残酷だから、いつか彼のことも忘れてしまうのだろうか。それは嫌だ。だから、僕は、彼を忘れないために、自分のコーヒーショップ限定での英語名を決めた。Bernard。彼の名前だ。イギリスでコーヒーを注文するたびに、彼を思い出そうと思う。そうやって、自分の中で、時間をかけて追悼しようとおもっている。

昼の生活と夜の生活

イギリスは日本の人口の半分だから昼の生活しかないということに気付いたのは、僕が昼夜逆転の生活に陥ってからだった。

 

そのころ僕は、大事な申請書をずっと書いてて、その間に学会でアメリカに行ったり、アメリカでマイコプラズマ肺炎にかかってずっと寝てたりしたから体内時計が狂ってしまって、イギリスに帰って来てからというもの、朝の8時ごろに寝て昼過ぎに起きるという生活になってしまった。

 

 

申請書を書くだけなら家にいながらでもできるし、当初はそれほど不便していなかったのだが、夜中(体内時計的には昼)にお腹が空いて、コンビニでも行こうかなと思ったときに、お店がどこも開いてなくて初めて困った。イギリスには、基本的には24時間営業のお店がない。たまに駅前とかに中東とか東欧から来た移民がやっている小さなお店があり、それは24時間営業なのだが、いずれにせよ、その数は圧倒的に少ないし、家からも遠い。

 

日本にいたときも、大学院生だった僕は、いい身分だったから、昼夜逆転の生活をして論文を書き上げていた。そのころは、昼間に生きている人とほとんど同じ生活ができた。必要なものがあれば近所のコンビニで大抵はそろうし、お腹が空けば牛丼屋に行けばいい。そこでは、昼間の生活と同等のサービスが受けられる。

 

日本では、昼の生活と夜の生活があり、それぞれにそれなりの人口を抱えている。昼間に働く人もいれば、夜に働く人もいるし、昼間にお酒を飲む人だって、夜に商談をまとめる人だっている。そして、昼も夜もお腹が空けばコンビニ弁当や牛丼を食べる。昼の生活と夜の生活は、時差がちょうど12時間あるだけの全くパラレルな世界線である。日本では、この二つが半日ごとに繰り返されている。

 

だから、イギリスで、僕が感じたことは、この国には夜の世界線が無いんだなということだった。昼間の12時間だけで成り立つ世界。もちろん、夜に起きている人もたくさんいる。けれど、彼らはナイトクラブで踊ったり、パブでお酒を飲んだりしている昼の世界の住人たちである。日本のように夜働き昼寝るという夜の世界の住人ではない。

 

それには、いろんな理由があると思う。社会学的な理由、経済学的な理由、文化的な理由、宗教的な理由。でも、僕は、シンプルに、人の少なさがその理由なんじゃないかなと思ったりもする。昼間の世界だけですっぽり収まる人口。日本の約半分の人口。日本は、人が多いから、昼の世界からあふれ出したはぐれ者たちが夜の世界を開拓していったのだ。そうやって、12時間おきにパラレルな二つの世界が出来上がった。

 

夜の世界のない国で、はみ出してしまった僕は、夜中、窓から星を見るためにカーテンを開ける。隣の部屋やそのまた隣の部屋のカーテンは閉まっている。きっともう寝ているのだろう。そして、いつしか朝になり、眠くなり、僕は日光を遮断するためにカーテンを閉める。ちょうどそのころ、隣の部屋ではカーテンが明けられるのだろう。まるで、夜と昼がそこで区切られているかのように。

人違い

 僕はよく夢を見る。夢の中は現実世界の続きで、知っている人が登場する。知人や家族や先輩や後輩。それは僕がイギリスにいても変わらない。たまに英語をしゃべることもあるけど、「この英語で文法的に合ってるかな」とちゃんと不安も感じている。

 

 この前、実家のおばあちゃんが出てきた。おばあちゃんは80代後半で、数年前にくも膜下出血で倒れてからは車いす生活を余儀なくされている。夢の中のおばあちゃんも車いすに座っていて、口数は少なかった。どういう流れかは忘れてしまったのだが、突然おばあちゃんに抱き寄せられた。おばあちゃんは、少し泣いていた。その場所がどこかはわからないけど、車いすに乗るようになってからおばあちゃんはデイケアにしか行かなくなったから、きっと実家のおばあちゃんの部屋だっただろう。僕も、よく分からないままに、少し泣いていた。

 

 目が覚めた。さっき見た夢を反芻する。おばあちゃんに抱き寄せられたことなど一度もなかったから、不思議な感じがした。そしておばあちゃんが泣いているところさえ一度も見たことがなかったことに気付いた。あのきついリハビリをしているときでさえ、リハビリ中に転んで、また骨折してしまったときでさえ、おばあちゃんは孫の僕の前では涙を見せなかった。

 

 そう考えると、あの夢がやけに意味深に思えてくるのだった。「虫の知らせ」。縁起でもない言葉が脳裏をよぎった。いてもたってもいられず、親にラインした。「おばあちゃんに変わりはない?」って。うちの親は、スマホを携帯しないから、中々返事が来ない。やきもきして電話しようかと思ったときに返信が来た。「おばあちゃんは今日も元気です」。僕は、ほっと胸をなでおろした。

 

 でも、そうなると、今度は、あの夢のやけに鮮明なリアリティが却って気になってくるのだった。あそこで涙を浮かべていたおばあちゃんは、一体何だったのだろう。泣いていたことだけ、確かな手触りがあって、そのくせ、どんな顔をしていたのかが思い出せなくなっていた。

 

 ああ、これはもしかしたら、「虫の知らせ」の知らせる相手を間違えたのだなと思った。きっと、どこかのおばあちゃんが自分の孫に最期を知らせるために夢に出てきたのだけれど、間違えて僕の夢に出てきてしまったのだろう。そう考えて、僕は、そのおっちょこちょいの、見ず知らずのおばあちゃんにそっと手を合わせたのだった。

大きなかき氷を上手に食べるのはむずかしい  

 

ある女性と話していて、そういえば今年はまだかき氷を食べていなかったということに気がついた。べつに毎年欠かさず食べているわけでもないのだが、もう夏も去るのにかき氷を食べていないのでは、秋を迎えられないという気分になり、早速、美味しいかき氷屋さんを検索した。スマートフォン用に作られたサイトに載っているお店のうちいくつかのお店に目星をつけておいて、翌日月曜に行こうと決めた。その女性は、次の日は仕事であったので、僕が一人で行き、その写真を送るということになった。

 

 

翌朝、早速、かき氷を目当てに散策をする。目星をつけておいたところのいくつかは定休日であったり、かき氷の提供をもうやめてしまっていたりしていて、少し歩き回ることになった。最近めっきり冷えてきたと思っていたのに、この日は見事な秋晴れだった。正味30分ほどしか歩かなかったが、リュックを背負った背中は少し汗ばんでいた。結局僕は、当初のリストには入っていなかったお店に入った。

 

 

 

そのお店は、かき氷屋さんではないが、おしゃれな和風カフェレストランという感じで、清潔で、月曜日の午前中だったからか客はまばらで、照明も暖かく、心地よい雰囲気だった。すぐに店員さんがメニューを持ってきてくれたが、メニューを見るまでもなく、表紙に書いてあった木苺練乳かき氷を注文する。

 

 

5分と待たずに出てくる。大きい。大きくて赤い。大体iPhone2つ分くらいの高さの、上から氷をそのまま自由落下させたときにできる円錐という感じの形だった。その頂上にメレンゲらしきふわふわした白いものが乗っている。赤いソースは木苺で、甘酸っぱくて、美味しい。来た甲斐があったと思った。実に夏らしい、優雅なひと時だった。

 

 

ただ、そのかき氷は、非常に大きく、そのくせに乗っているお皿が小さく底も浅めで、上から崩しながら食べていくと、何%かはお皿から零れ落ちてしまった。零れ落ちた、氷のクラッシュは、ジワリと融けていき、あまりきれいではない。どうして、こんなに大きいかき氷の、そのお皿がこんなに可愛らしいのだろう。

 

 

そして、そのかき氷は、非常に大きいから、全部食べ切るまでにお皿の上で融けきってしまう。最後の方は、木苺シロップの混じった冷たい水を飲んでいるにすぎない。早く食べてしまおうにも、人体の限界というものがあるし、そもそも、かき氷を早食いするというのは、風流ではない。せっかく食べるのだからちゃんと雰囲気に浸りたい。

 

 

食べていくうちにこぼれてしまうし、最後は融けてしまう。そんな失敗の連続を、僕は、話す相手がいない。そのことが何よりも、切なかった。いや、敢えて良く言えば、「夏の終わり」を感じた。インスタジェニックなかき氷を、悪戦苦闘しながら食べるとき、何よりも必要なのは、「美味しいけど難しいね」って言い合う相手なのであった。失敗談を笑い合える相手だった。それは、ことによると、将来、僕がこのことをすっかり忘れてしまったときに、思い出話として笑いながら語りかけてくれる相手なのかもしれない。

 

 

 

 

 

そういう人がいないまま、大きなかき氷を上手に食べるのはむずかしい。